床も壁も天井も白い、無機質な空間。
窓ひとつ無く、天井に嵌め込まれた蛍光灯の明りのみによって照らされ、
より白さが強調されるその空間は、何処か病院の手術室か、或は何かの研究室を想起させる。
“一族”以外はその場所も、存在自体も知る事のない、都会の地下に設けられた一室。
その中で、部屋の主、千坂らちかは興奮に己が身を震わせていた。
その原因は部屋に置かれたベッドの上に横たわる存在である。
今、らちかの視線の先には、キャスター付きのベッドに全身を拘束された、
裸体の少女が一人いる。
無駄な肉の付いていない、しかし女性的な曲線も湛えた健康的な肢体。
すらりと伸びた足がそこに活動的な印象を添える。
肩から体の正面に廻すように下ろされた黒髪は、緩やかな胸の双丘の間に流れている。
少女の名は夢追中。
かつて、らちかの通う女子校、妃芽薗学園で勃発した魔人同士の大規模な抗争の中で、
らちかと夢追は出会い、ほんの一時ながら、言葉を交えた。
その時にらちかは夢追に対して強い関心を持ち、いつか二人きりになる事が出来たらば、
魔人能力『エヴァーブルー』の対象にする事が出来たならば、と胸奥を燃やし続けていた。
その想いが、種々の困難を乗り越え、遂に結実したのである。
平静でいられずとも無理からぬ話であった。
***
これまで思う様、望む様に多くの獲物を捕えてきたらちか。
らちかの能力があれば、大抵の相手は容易く捕らえる事が出来る。
だが、今回は――夢追中には、捕えるために越えねばならぬ障害が多々あった。
夢追は常に周囲に護られていた。
夢追の住む屋敷は魔人能力を持った付喪神――確か社という名で呼ばれていた――であり、
その屋敷に篭っているだけで殆どの外敵を防ぐ事が可能だ。
意思を持ち、夢追とのみ会話が可能であるというその屋敷は、
夢追に衣食住の全てを提供し、さながら其処は桃源の箱庭である。
では外出時の夢追を狙えば良いかと思えば、外出時もまた護りが固い。
夢追は常時衣服の何れかにその付喪神、社の一部を潜ませ、
その身に危険が訪れようものなら社の能力によって瞬時に屋敷内に帰還が可能なのだ。
しかもその転送能力だけでなく、社には魔人能力を記録する能力もあるという。
どんな能力をどれだけ有しているのか、全体像は杳として知れない。
迂闊に手を出して火傷するのはこちらの身である。
更に問題は社に止まらず、夢追の親友で魔人能力を持った鷹――オウワシと言ったか――が、
常に上空で目を光らせており、有事の際には夢追の身を護る為に襲い来るとの事だ。
魔人能力自体は人の言葉を喋るだけというものだそうだが、
そもそも空を飛んでいる相手にはこちらから手を出す方法が限られる上、
夢追を空に連れ去られてしまったならば追う事すらままならない。
その上、地上からもSPが一人、夢追の安全の為に陰から気を張っているらしい。
この人物は夢追に武術指南をしている武術の達人であり、
元は世界中で武者修行兼人助けの旅をしていた対魔人戦のエキスパートであるとか。
夢追が『最も信頼を寄せる人です』などと語っていたが、
聞いた所、真正面からぶつかって攻略できるような生易しい相手ではない事は確実である。
全くもって御丁寧な鉄壁さに頭が下がる思いである。
そうそう魔人能力を発動すること、夢追を拉致することなど出来ないだろう。
だが――恋は障害が多いほど燃えるもの。
らちかは、その言葉通り、夢追への思いを募らせ、また、夢追を陥落させる術を探した。
そして、見つけたのだ。
磐石に思える布陣に存在した、大きな隙を。
それは根本的なもの、気付けば実に容易く付け入ることの出来るウィークポイント。
それは夢追本人の、魔人能力を見たがるという性格である。
らちかは夢追と共通の知人を通し、密かに夢追へとコンタクトを取り、
自分の能力を見せたいからこっそり会う事は出来ないかと打診した。
結果、容易く夢追を釣り上げる事が出来た。
ただ、らちかは焦らず、先ずは夢追の周囲の事、護衛体制についてを聴き出す事に専念し、
また、そうやって時間を掛ける内に己の夢追に対する衝動を昂ぶらせ、準備を整えた。
能力の発動に成功さえすれば、どのように完璧な護衛システムも意味はない。
『エヴァーブルー』はそのシステムの根幹を無に還するのだから。
『エヴァーヴルー』は能力を発動させると、
効果対象をどのような状況下にあれ拉致することが出来る。
そして、その拉致した相手の関係者全ての記憶を改竄し、
拉致された者は誰からもその存在を無かったこととされる。
護る者のいない防衛システムは働きようがない。
獲物を狙う肉食獣のように、息を潜め、じっと機会を窺っていたらちかは、
周囲に誰もいない、夢追に対しての能力発動に邪魔をする存在のいない瞬間を突き、
終にその能力を発動した。
それからは最早、夢追を拉致監禁する作業は消化試合も同然である。
夢追の身に着けている物に社の一部が混じっている恐れがあった為、
衣服は全て処分し、一糸纏わぬ姿となった夢追を部屋に運び込む。
夢追自身が「何が起こるか分からないが奇跡を起こす」という魔人能力の持ち主である為、
拘束具には魔人能力の発動を封印する為の力が篭められた道具を使用した。
もちろん、この道具も夢追を捕まえる為に予め用意した物である。
夢追を拘束するベッドも、ベルトも、例え魔人の膂力を持ってしても破壊出来ない、
特別に頑丈な物を準備しておいた。転校生でもなければこれで強引に逃げられる事もない。
夢追捕獲完了である。
***
そして現在――らちかの目の前には全身を拘束された夢追が横たわっている。
全てが整い、手の中に求めていたものが確かに存在する事を実感したらちかは、
「くくっ……」
抑え切れぬ欣悦を漏らした。
***
目を覚ました夢追は、ベッドの上で首を廻し、ぼんやりと辺りを見渡した。
周囲の白一色に染まった部屋の様子と、自身が拘束状態である事を把握し、
続けて拘束具の下、己が産まれたままの姿であることを認識し、
「えっ」
間の抜けた声をあげた。
目が覚めたら全裸で拘束されているという状況であれば仕方ないとも言えるだろうか。
そんな驚きの声をあげた夢追の耳に軽い足音が届く。
誰かいるのか、裸を見られていただろうかと慌てて音の方向へ首を向けた夢追の視界に、
やや小柄な、白み掛かった金髪を短く切り揃え、
その髪の下に人懐っこい無邪気な笑顔を浮かべた、自分と同年代の少女が映った。
夢追にとって、近頃見慣れた顔である。
「目が覚めたかな?夢追ちゃん」
先達ての抗争で知り合い、以来、何度か顔を合わせている人物、千坂らちかだ。
嬉しそうに声を掛けてきたらちかに、何を言うべきか、現在の状況は何なのか、
夢追は戸惑いながら、一先ず聴かねばならない事を質問した。
「千坂さん?えーと、おはようございます?
と言いますか……あ、あの、私の服は……」
夢追の、混乱を滲ませ、語尾を濁した言葉を受けて、らちかはさらりと言い放った。
「ああ、ごめんね、夢追ちゃん。念のために処分しちゃったんだ」
「へっ?」
らちかの返答に二度目の間抜けな声をあげる夢追。混乱は加速する一方である。
ここは何処か。何故自分は拘束されているのか。どうして服が処分されたのか……等々。
ぐるぐると思考が廻る頭で、差し当たり質問を続けるしかなかった。
「すみません、今、私ってどういった状況にあるのでしょうか?」
困惑する夢追に花開くような笑顔を向け、らちかは、
「ふふっ、夢追ちゃんは今、私に拉致されて誰も知らない場所に監禁されているんだよ」
事も無げに、その日の空模様でも話すかのように、そう告げてきた。
「監禁……ですか?いやまあ確かに体は拘束されちゃってますけど……
え、でも、どうしてそんな事になったのかとか、どうやって捕まったかとか、
私、全然覚えていないんですけど……」
疑問符で頭が一杯になる。そのせいか、未だ危機感などは追いついてこない。
いや、危機的状況かどうかがそもそも分からない。
と言うより、いざ本当に危機的状況に陥ったならば――質問を続けつつ、夢追は思案した。
「それはね……私が、私の能力を使って夢追ちゃんを捕まえたからだよ。
ほら、初めて会った時から夢追ちゃんずっと言っていたでしょ?私の能力を見たいって。
ふふっ、これが私の能力『エヴァーブルー』だよ」
しかし、そんな夢追の冷静さは、らちかの言葉で綺麗に拭い去られてしまった。
魔人能力――それなら仕方ない!いや、落ち着いている場合じゃない!
霧がかかったように薄惚けていた夢追の頭が一瞬にしてクリアになる。
経緯は覚えていないが、ずっと見たいと願っていたらちかの能力を披露して貰っていたとは。
脳内を瞬時に魔人能力記憶モードに切り替えた夢追は、一気に捲し立てた。
「わ、わ、これって千坂さんの能力なんですか!?
わぁ、道理で訳も分からないうちに拉致されちゃったんですね!
え、やっと私に見せてくれたんですね!私、千坂さんの好みっぽくなりました!?」
初対面の時、好みじゃないからと能力を見せてもらえなかった事を思い出す。
あれからハンカチの交換や、秘密の逢引を繰り返してきた。それが素敵な実を結んだか。
詳しい事を聞こうと拘束された身を乗り出さんとする夢追を前に、
らちかは笑顔をより一層深め、笑い声と共にこれから始まる宴の前口上を述べる。
「もちろん。夢追ちゃんはとても……ふふっ、とっても魅力的だよ」
その身を縛られてなおこの事態に興奮する夢追と、
己の行為を語ってなおこの事態に興奮するらちかと、
二人の視線が熱く交錯し、狂気の宴が今、その幕を上げた。
***
それから暫く、
夢追がらちかの能力を受けた事、
現在、夢追がらちかに監禁されている事、
らちかの血管に対する異常な執着心と衝動の事、
そして――
夢追に対してこれから行うであろう行為を、
愉しそうに、嬉しそうにらちかは語り続けた。
夢追の血管を使って、リボンやハンカチを作ろうか、
その体の一部を保存し、美しい標本のようにしようか、
どのように夢追を“仲間”にしようか、蕩けた表情で語り続けた。
それは常人ならば恐怖するか、何とか逃げ出そうと策を巡らすか、
或は全てを諦め、無気力な表情を見せるかするであろう内容であったが、
「おおー!相手が知らない内にこんな風に出来るとは凄いですね!
二人きりになりたい相手と二人きりになれる能力!ロマンチックですね!」
しかし、話を聴いてなお、夢追は恐怖に顔を歪める事も、焦りを滲ませる事も無く、
むしろ自分が能力を喰らったという事実に対する興奮と共に、能力への感嘆の声をあげた。
この状況を前にして滅多に見られぬ、その夢追の反応に、らちかは嬉しそうに笑う。
「ふふっ、余裕があるね、夢追ちゃん。
私の能力の事も、私のこれからやる事も聴いて、それでも笑ってくれるなんて。
それじゃあ……遠慮せずに始めちゃっていいって事かな?」
手に持つメスを夢追の眼前に掲げ、らちかは、我慢出来ないんだ――と呟く。
らちかにとって血管を愛でる行為は何物にも換え難い。しかし、
能力の対象者、つまりは自分の好きな相手から了承を得られずに事を進めてしまうのは、
やはり気が引けるところがある。相手が行為を受け入れてくれるならそれに勝る事は無い。
そんならちかの思いに対して、
出来れば能力以外で痛い思いはしたくないんですけれど――と、困ったように夢追は言った。
「素敵体験をさせて頂いて感謝してますけれど、
余り長い時間監禁されている訳にもいかないんですよ。
私には時間の余裕がないもので……なにより、皆に心配掛けちゃいますし」
「心配?もう夢追ちゃんの心配をする人なんていないよ?」
夢追の言葉に、らちかは形の良い眉を寄せた。
『エヴァーブルー』の説明は既にしたのだが。
あれだけ盛り上がっていたのだから、信じていないという事も無さそうなものだけれど。
どうも夢追の態度は、自分が思っていた理由によるものではないらしい。
眉根を寄せたらちかに、夢追はにっこりと、嬉しそうに笑って告げた。
「誰が私の事を忘れていても、SPさんが心配しちゃいますから」
SP――いつか夢追が言っていた最も信頼を寄せる存在の事。
夢見ヶ崎さがみと言ったか。
徐々に、らちかにも夢追の考えている事が分かってきた。
「それに、SPさんが待機してるでしょうから、作業の前に止められちゃうと思いますし」
言葉を重ね、そう夢追は嘯く。
いや、夢追本人はそれが間違いのない事だと信じ切っているのだろう。
つまり夢追にとって、そのSPは余程頼り甲斐のある存在という訳だ。
らちかの能力がどんなに凄かろうと、自分の防壁を潜り抜ける事は出来ない。
夢追の言葉から、そして態度から、そんな自信が滲み出ている。
これまでらちかの言葉を聴いても平然としていたのは、
らちかの行為を受け入れるつもりがあったからではなく、そのSPへの信頼故か。
成程、と、らちかはひとつ頷き、
「じゃあ、夢追ちゃん……ひとつ、賭けをしてみようか」
そんな夢追を、目を細めて眺めながら、無邪気に嗤った。
ならば、まず為す事は、夢追に現状を正しく認識させる事だ。
***
賭けのルールは明快。
夢追はSPに携帯電話を通してひとつだけ、自分を知っているかという質問をする。
通話先のSPが夢追の事を覚えていれば、直ちにらちかは能力を解除し、夢追を開放する。
それだけである。
端的に言うならば、らちかの能力が勝つか、夢追とSPとの絆が勝つかとも表せるだろう。
寝たままでは喋り難かろうと、駆動式のベッドを地面と垂直に立て、
らちかは用意した携帯電話から、夢追に指定された番号へ発信する。
作業は何の滞りも無く進んだ。
コール音が一度、その音が鳴り止む前に、電話は通話状態になった。
『はい、夢見ヶ崎です。ご用件を伺いましょう』
電話から聴こえる声に、夢追はその表情を緩ませた。
「あ、さがみさん。夢追です。
えーっと、いきなりで申し訳ないんですが、私の事を覚えていますか?」
らちかの手に握られた携帯電話に耳を当て、一息に質問し、
相手の言葉を待つ夢追の表情には強い自信が見て取れた。
そんな夢追の表情を見遣りながら、
らちかもまた、自分の能力への自信から笑顔を崩す事はない。
両者の間に挟まれ、暫しの沈黙を守っていた電話は、
『……ゆめさこさん』
夢追の名を呼び、
『以前に仕事を依頼された方かしら?
申し訳ないけれど、覚えていないわ。
依頼なら、エージェントを通して貰えると有難いのだけれど』
夢追に残酷な事実を突き付けた。
***
それはまるで大地が消え失せるかのような、空が堕ち来るかのような、
夢追には到底信じられぬ出来事であった。
夢追にとって、SPであり武術指南役であり、
何より幼い頃からずっと自分の面倒を見てきてくれた存在。
夢追が常日頃、「師匠」と呼んで敬愛してきた存在。
この世の誰が敵に回ろうと、最期まで自分を護ってくれる存在。
電話の先の相手――夢見ヶ崎さがみとは、夢追にとってそういった存在であった。
夢追が普段かなりの無茶をするのも、
夢見ヶ崎さがみという人物があるからという部分も大きかった。
どんな凄い事が起きようと、どんな奇跡が起ころうと、
この人だけは必ず自分と一緒に其処に居て、自分を護ってくれる。そう信じ切っていた。
そう、信じ切っていた夢追であるからこそ、
電話口から聴こえる声を俄かに受け入れる事など出来ようはずもなかった。
「う……嘘……師匠!?さがみさん!!
夢追です!夢追中です!冗談ではないんですか!?本当に忘れちゃったんですか!?」
電話から告げられた言葉を聴いた夢追は、
それまでの平静さが嘘であったかのように取り乱し、
必死になって電話口へと喰らいつき、悲鳴のような声をあげる。
狼狽えながら、他の何も見えず、何も聴こえず、懸命に自身の名前を音にした。
だが、無情にも電話口からは覚えがないとの事務的な口調の応えが返ってくるだけであった。
賭けは、らちかに軍配が上がった。
***
「ふふっ、どうかな。私の『エヴァーブルー』は?」
携帯電話を片付けたらちかは、拘束が無ければ今にも倒れそうな様子の夢追に再び近付き、
その蒼白になった顔に手を差し伸ばしてそっと頬を撫でつつ、言葉を掛けた。
「もう夢追ちゃんの事を心配する友達も、いつも護ってくれる屋敷も、
誰も夢追ちゃんの事を覚えてはいないんだよ。
皆記憶を一切の矛盾無く書き換えられてしまうんだから。
もう夢追ちゃんはこの世界にとって、死んでしまったも同じ存在なんだよ」
らちかは、現状が理解できず、自失の体の夢追の意識を引き戻すため、状況の説明を始めた。
淡々と語るその話を理解しているのかどうか、夢追は細かく体を震わせ、
暫くの間、蛍光灯の明りを無機質に照らし返す床にふらふらと視線を彷徨わせていたが――
不意に、拘束具の中、びくりとその体を一際大きく跳ねさせた。
***
自分の能力が勝利した事、夢追を知る者が世界に自分一人になった事、
それらをその目、その耳で確認したらちかは、滾る衝動に身を焼きながら、
夢追の様子を窺っていた。
もう自分を知る者が私以外にいない事を理解しただろうか。
もう信頼を寄せていた者に自分が忘れられた事を理解しただろうか。
もう――私の愛を受け入れるしかない事が理解出来ただろうか。
意識をしっかりと取り戻すのはいつだろうか。
意識を取り戻したら次にどんな反応を見せるだろうか。
泣き出すだろうか。あまり泣くところは想像出来ないけれど。
或は怒るだろうか。あまり怒るところも想像出来ないけれど。
もしかしたら、しょうがないですねぇなどと笑ってはくれないだろうか。
そう見守っていたらちかの前で、夢追はびくりと体を痙攣させたかと思うと、
「うぐっ、うえぇ……えっ、えほっ……ぇうっ……はっ……」
肩を震わし、激しく嘔吐した。
「……っ!」
それに驚き、らちかは慌てて後退し、吐瀉物を避ける。
「げほっ……うっ……はっ……はぁっ、ぁぐっ……」
目の前で激しく咽る少女の姿――
らちかは意外な状況に、若干の困惑の色をその顔に浮かべた。
まさか夢追が嘔吐する程のショックを受けるとは予想もしていなかった。
常に元気で、むしろ少々元気過ぎる、エネルギーの塊のような存在が、まさか、
こんなに繊細だったのかと、らちかはそれまでの夢追のイメージを覆された思いである。
いや、通話先の相手をそれだけ深く、本当に信頼していたという事か。
いや、それよりも、驚いている場合ではない。この状況を放っておく訳にはいかない。
夢追は、がくりと項垂れ、未だ震えながら咳き込み続けている。
らちかはポケットからハンカチを取り出すと、優しく夢追の口を拭いながら、
心配そうにその顔を覗き込んだ。
「夢追ちゃん、大丈夫?そんなにショックを受けるなんて……
ね?でも安心して?これからは私がずっと夢追ちゃんと一緒にいるから。
私は絶対に夢追ちゃんの事を忘れないから」
らちかは夢追を落ち着かせようと言葉を掛け続けた。
自分の能力によってショックを与えた事に矛盾するようではあるが、
らちかにとって能力対象者は飽くまで好きな人である。
好きな人が落ち込む姿を見るのは、
この世にその相手を知る者は自分一人であるという独占欲を満たす喜悦を別にして――
やはり出来うる限り御免被りたいのである。
らちかは俯き震える夢追に声を掛けながら、その口を綺麗に拭い去る。
続いて床に目線を移して、床に撒かれた吐瀉物をさっさと洗い流すべきか思案を始め――
そこで、ふと夢追の異変に気付いた。
「夢追ちゃん?」
声を掛け、改めて夢追の姿を注視する。
夢追の口から漏れるはっ、はっ、という浅く短い呼気。
拘束具の隙間から覗く白い柔肌はしっとりと汗に濡れ、桜色に上気している。
そして、床に広がる吐瀉物から立ち昇る刺激臭に混じり、
らちかの鼻が捉えた、夢追の体から発せられるこの匂い。これは、
「夢追ちゃん?もしかして……興奮してるの?」
らちかの問い掛けが聴こえているのかどうか、夢追は微かに首を上げた。
そして、焦点の定まらぬ視線をらちかの顔に滑らせながら、
「まさか……師匠が……けほっ、
忘れるなんて……私の事……んぐっ、くっ、はっ……ふふ……凄い……
え……『エヴァーブルー』……う……凄い……こんな……素敵な……能力……」
譫言のように、呟いた。
この呟きが、向き合う二人に夢を与える。
それは奇跡か、或は運命か。
――
――――
――――――
「はじめまして、――お嬢様。今日からお嬢様のお世話をさせて頂く夢見ヶ崎さがみです」
それが、師匠との初対面でした。
格好良くて、綺麗で、素敵な大人の女性でした。
私は師匠にどんな返事を返したのでしたか。
「――ええ、そうですね。苗字みたいとはよく言われます。
でも、この名前にはとても素敵な意味が込められているんですよ。
君に幸あれ、君の未来に幸いを……
“さち”や“さいわい”という言葉があるのはご存知ですか」
“サ”という、凄いこと、不思議なことを起こす力と、
“サ”の“上”を意味し、“神”を意味する“さがみ”はとても縁起が良い言葉であること。
すごく難しそうで、そしてわくわくするようなことを話す師匠は、とても輝いて見えました。
思えば、その頃の師匠は今の私と同じくらいの年頃だったはず。
けれど、私にとって、師匠はいつでも憧れの大人の女性でした。
――――――
――――
――
「痛っ!痛いっ!痛いです!あっ!うぅぅーーーっ!ぐぅぅーーーっ!」
床も壁も天井も白い、無機質な空間に、くぐもった悲鳴が満ちる。
らちかの握るメスが夢追の首筋を切り開き、その傷口から頚動脈を覗かせたのだ。
夢追がらちかによって拘束されて丸一日。
らちかは夢追が正常な意識を取り戻したところを見計らい、
それまで我慢していた己の衝動――血管への執着――を思い切りぶつけていた。
「ああ……夢追ちゃんのお肉って、弾力があって……ふふっ、凄く綺麗」
「うっ……ぐっ……」
らちかはその無邪気な笑顔に蠱惑的な彩を混ぜ、開かれたばかりの傷口を愛おしげに眺める。
夢追は首筋に走る激痛に、只管、歯を食い縛り、息を詰めて耐えるしかなかった。
「ふふっ、血管もこんなにどくどく跳ねて元気で……夢追ちゃんらしいね。
ああ……もう、我慢できない……ふふっ……くくっ……」
興奮した面持ちのらちかは、喘ぐ夢追にもうちょっと我慢していてと声を掛けると、
傷口に指先を差し込み、ドクドクと鼓動するその血管を引き摺り出した。
うっ、という声にならない呻きが夢追の口から漏れる。
「はあぁ……」
らちかは己の指の間に挟まれた血管を見て、また指に伝わる脈を感じて、
至福の時を存分に味わった。
暫くの間、らちかの行為に口を結んで耐え続けていた夢追であったが、
新たに傷口を開かれない状態が続くと、何とか心に余裕を作ったのか、
血管から伝わる振動に身を震わせながら、
それでも意識を繋ごうとするかのように、言葉を搾り出した。
「け……血管を引っ張られるのは……珍しい体験ですね……
目の前がチカチカするし、体の内側が全部引っ張られて……ぞわぞわします……
な、何と言うか……自分が……ソーダ水入りの水風船に……なった気分です……」
喘ぎながらも切れ切れの言葉を漏らす夢追に、
血管を思うように弄り回していたらちかはくすりと笑う。
この行為の最中に会話を楽しめる相手などそうはいない。
「ふふっ、面白い表現だね。……それに随分と余裕もあるみたいだし、
流石は普段から魔人能力を喰らい慣れているだけあるって事かな?」
夢追の頑健さに感謝しながら、らちかは嬉々として言葉を交わす。
そんならちかに、夢追は覚束ない声で過去に行った己の魔人能力探索の日々を語った。
「いやぁ……先日、相手の体を爆破させるって能力を持った方に、
ちょっと頼んで手を吹き飛ばしてもらった事があるんですけど……
あの時くらいの厳しさですかね……あの時もはしゃぎ過ぎて失血が……
もちろん治したのも他の人の魔人能力で……えへへ……凄いよねぇ……」
取り止めも無いような話でいて、破天荒な話。
夢追の口から、そんな奇妙な話が幾つも産まれ、消え逝く。
奇妙な語りが、らちかの至福の時に華を添える。
夢追が一通り喋り終えると、
血管を愛撫しつつ、その言動に耳を傾けていたらちかは、
「わぁ……夢追ちゃんって本当にそんななんだね……」
呆れ半分のそんな感想を述べ――
しかし自身の衝動もまた似たようなものであると思い直し――
その事実に心を燻らせた。
やはり自分と目の前の夢追には何処かしらの共通項が、同じように狂ったところがある。
今の遣り取りと、秘した逢瀬での話と、いつかの邂逅時の印象とを併せ、らちかは確信した。
抑えられない衝動と、制御できない行動、そこから得られる愉悦。
恐らく、夢追もまた、そのような内なる狂気を宿し、それに身を委ねる存在。
――自分と同じように。
***
「そんな夢追ちゃんなら……もしかして、私のこの行為も……分かってくれるのかな」
らちかの口から、そんな言葉が漏れ出ていた。
自分の言葉にはっとした表情を見せ、血管を玩ぶのを止めて何か考える様を見せるらちかに、
「んん?……血管が好きで堪らないーってやつですか?
なんて言うんでしょうね、そういうの……趣味?でいいんですかね?
まあ趣味みたいなものですよね。
えーっと、それで、千坂さんの行為が分かるか、ですよね。
そりゃあ趣味は人それぞれですし、趣味ならしょうがないなーと思いますよ」
夢追は首の状態を確認するように首を傾げつつ、言葉を返す。
らちかは指先に付いた血を舐め取ると、己の昂ぶりを抑え、夢追の言葉を吟味し始めた。
我慢が効かず、ついつい行為を始めてしまったらちかであるが、
夢追には聴いておかねばならない事があったのだ――“昨日の一言”について。
「あなたや、あなたの大切な人が標的になっても?」
「その時々だとは思いますけれど……私は趣味に生きる人を絶対に否定したくはありません」
らちかの前置き代わりの言葉に、夢追が応える。正気と狂気が混濁した答えを。
その言葉にらちかは僅かな親近感を抱くと共に、より一層、“昨日の一言”を意識した。
『エヴァーブルー』が素敵な能力である――と。夢追は確かにそう言った。
そもそもらちかが逸る心を抑えてまで、夢追の意識が取り戻されるのを待ったのは、
焦がれて眠れぬ夜を過ごし、夢追の意識が混濁している間に事に及ばなかったのは、
その言葉の真意を知らんが為であった。
口腔に溶ける夢追の血の味を堪能し、高まり切った衝動を一旦満たす。
軽く呼吸を整え、思考を平時の状態に戻す。
自身の言葉で己に冷静さを取り戻させたらちかは、今度こそ忘れぬようその心に在る疑問を、
「ねえ?夢追ちゃんは昨日、
私の『エヴァーブルー』が素敵な能力だって、そう言ったよね?」
気軽な風に……、
「そんな事言われたの初めてだったんだけど……あれって、どういう意味なの?」
しかし笑顔の中に幽かに縋るような表情を織り交ぜて、らちかは投げ掛けた。
***
らちかは心に孤独を抱えていた。
自分の事を理解してくれる存在がいるかもしれない。
自分の能力を理解してくれる存在がいるかもしれない。
本当の自分を理解し愛してくれる存在がいるかもしれない。
らちかは己の衝動で、愛する者を“仲間”にする日々を送りながら、
やはり何処かにそのような存在を求め続けていた。
自分達“一族”以外に自分の事を理解してくれる存在にずっと憧れてきた。
“一族”以外に、本当の自分を認めてくれる場所を、存在を、ずっと探してきた。
***
夢追が呟いた一言は、らちかの心を強く惹き付けていた。
もしかしたら、何か自分が望んでいる事を言ってくれるのではないか。
そんな思いを胸に、らちかは夢追の言葉を待った。
落ち着かず、メスを右手に、また左手に持ち替え、弄りながら。
だが、
「だって、凄いじゃないですか。素敵ですよ。『エヴァーブルー』。
まさか、師匠が私を……うくっ、う……ご、ごめんなさい……けほっ……
し、師匠が私を忘れるなんて……そんな事が起こるなんて思ってもいなくて……
世界中の誰よりも……師匠が……師匠なら……私の事を覚えていてくれるって……
本当に凄いです……そんな凄い事が起こせるんですから、やっぱり素敵な能力ですよ」
喘ぎ喘ぎ発せられた夢追の言葉に、らちかは少なからず落胆した。
自分の能力が褒められたとはいえ、そこにはらちかの居場所がない。
眼前に見えた夢は、やはり蜃気楼のように手を伸ばしても触れることは叶わない。
些細な希望を失った思いに、らちかはその顔に陰を落とす事を如何ともし難かった。
「……そっか。夢追ちゃんにとって、その『師匠』はそんなに大切な人だったんだね」
力無く呟くらちか。
しかし、らちかの表情の曇りは、
「……それに、私、感謝しています……『エヴァーブルー』に……」
続けて告げられた夢追の言葉によって払われた。
***
「かん、しゃ……?どういう、こと?」
戸惑うらちかに夢追は言葉を続ける。
己の闇を明かすように、秘密を見せるように、滔々と……。
「私はこの世の凄い事や魔法みたいな事を見るのが大好きで……魔人能力も大好きで……
魔人能力を喰らって死ぬなら本望だと、常日頃から思ってはいたのですが……
やっぱり死んだ後に、私の死を悲しむ師匠や友達がいるというのが気に掛かっていて……
でも、『エヴァーブルー』のお陰で、私は私以外の誰に遠慮することも無く、
自由に生きた結果、自由に死ねるんです。
誰にも遠慮せずに『エヴァーブルー』で死ねるんですから……素敵じゃないですか」
ずっと胸の内に仕舞っていた思いの丈を吐き出したのか、その言葉を言い切った後の夢追は、
暗く揺れる表情の中に、何某かの晴やかさを窺わせていた。いや――
「凄いなぁ……うふふ……ふふ……」
それどころか、能力の影響下にあることを思い出したのか、次第に夢追の呼気は短くなり、
頬を上気させ、昨日を思い起こさせるかのような酷い興奮状態に陥りだした。
未だ言われた言葉を腑に落とせず、呆と立ち尽くしているらちかへと潤む瞳を向けた夢追は、
その興奮を齎してくれた相手に、その素晴らしき奇跡を起こした能力に、せめて謝辞をと、
にこりと微笑み、努めて冷静にと振舞うように、丁寧な感謝の言葉を述べた。
「私に、安らかに死ねる場所を与えてくれて、ありがとう。
私はきっと、ずっと、千坂さんと、千坂さんの能力を捜し求めていたんだと思う」
***
らちかは手に持つメスを取り落とした事にも気付かなかった。
***
――この辺で、終止符を打つのも悪くないのでしょうか。
――これ以上、生きなくとも良いのでしょうか。
――誰にも心配を掛けず、逝きたいように逝けるのなら……。
――
――――
――――――
「本格的な武術……ですか?普段お教えしている護身術の類ではなく?」
私が魔人へと覚醒したあの日、師匠が私の師匠となりました。
家を出て生きていくには必要だからと、
魔人として優れた肉体を得ただけでは足りないと、
誰よりも先んじて行動できる技術が欲しいと、
師匠に、私の師匠になって欲しいと、頼み込んだのでした。
幾許かの言葉を交わし、私の決意を確認した師匠は、しばらく考えた末に応えてくれました。
「わかりました。
それでは――お嬢様。いえ、――さん。師匠として、最初の教えを授けます。
あなたは、あなたのやりたいようにやりなさい。生きたいように生きなさい。
恐れずにあなたの幸せを探しなさい。何が起こっても、私があなたを護るから」
命を延ばすため、病院のベッドで24時間監視される生活――それを捨てる決断を語った私を、
師匠は後押ししてくれました。……でも……本当は師匠は……いいえ、今更何も言いません。
私は生きたいように生きました。
――――――
――――
――
夢追がらちかに拘束されてから既に幾日かの時が流れていた。
夢追にはとうに日付の感覚も無く、
らちかもまた日付など一顧だにせず己の愛情表現に勤しんでいた。
夢追がらちかの能力を褒めてから、
夢追がらちかの衝動を受け入れてから、
夢追がらちかの仲間になる事を受け入れてから、
夢追がらちかの言葉を聴き、行動を見て、それでもらちかに笑顔を向け続けたその時から、
この地下室の時を刻む全ての時計の針は落ちてしまったかのようであった。
変わらぬ狂気、変わらぬ狂態、変わらぬ行為が繰り返され……
只ゆっくりと、二人は終末へ堕ちて往く。
その日も、らちかの部屋で既に日課となっている夢追へのらちかからの給仕が行われていた。
***
「はい、あーん」
「あー」
親鳥が雛に餌を与えるように、らちかは用意した食べ物を、口を突き出す夢追に与える。
「んっ……」
「美味しい?」
「んん……んぐっ……はい。不思議な味付けですけど、美味しいです」
「その料理は食材に血管の鮮度を落とさない為のものが色々入っているから、
独特な味でしょう?美味しく食べられるように結構苦労してね……」
何の気もない会話を続けるらちかと夢追。交わされる言葉を聴く分には、
何処にでもいる仲の良い二人のそれを想像する事だろう。
夢追が体を拘束されている事と、
その拘束ベルトの間から覗く裸体に付けられた幾つもの切り傷にさえ目を瞑るならば。
ここ数日、らちかは夢追の体の至る所を切り裂き、傷口から引き出した血管を愛でていた。
頚動脈に始まり、腕、胸、腋など、その日毎に場所を変えては夢追の柔肌を切り開き、
脈打つ血管を眺め、触り、時に全身を使ってその拍動を感じ、終日、愉しんでいた。
今日もまた、食事が終わればその行為――
らちかにとっての、夢追との愛の営み――を始めるつもりである。
何処を切ろうか、どうやって愛でようか、らちかは笑みを零しながら、夢追に語り掛ける。
「食事が終わったら、また“新しいところ”を見せてもらおうかな?
今度は何処がいいかな……。ふふっ、そろそろ大腿動脈をじっくり見ちゃおうかなー?」
「えぇっ!?……それって、う、内股ですよね?うう……
何か今更ですけれど、やっぱりそこを注視されるのは……は、恥ずかしいですよぅ」
頬を朱に染め、羞恥の表情を浮かべ体を捻ろうとする夢追を見て、
らちかは笑みを、狂気を一層深くして、悦びに浸りながら給仕行為を続ける。
本番前のこの行為もまた、らちかは気に入っていた。
「好きな人の事、何だって知りたくなるものでしょ?
全部、見せてよ。いつも隠しているところも、恥ずかしいところも、全部ぜんぶぜーんぶ」
「うぅ……でも……あ、んっ……」
「私はかなめちゃんに会えて本当に良かったと思ってるよ。
運命に逆らって得た運命の出会い、なんてね。私の事をこんなに……」
「んんっ……」
「私の本当の姿をこんなにちゃんと見てくれて」
「……んっく。えへへ……照れますね」
「ふふっ……大好きだよ」
ドロリと甘く、精神を蝕む愛の囁きが紡がれ、無機質な白一色の部屋に狂気が満ちる。
壁に設えられた鏡にはいつまでも、二つの影が揺れ動く幻燈が映し出されていた。
***
――この辺で、終止符を打つのも悪くないのでしょうか。
――これ以上、生きなくとも良いのでしょうか。
――誰にも心配を掛けず、逝きたいように逝けるのなら……。
――でも、それは本当に?
――
――――
――――――
「夢を追うで……ゆめさこ?そして名前は中の字ひとつで……かなめ」
私が自分の苗字と名前を改めると言って差し出した、私の新しい名前を師匠は見ています。
「名前はまあ分かるけれど、苗字は随分と変わっているわね。読みもゆめさこって。
夢を追うという漢字はあなたらしいと思うけれど……」
唸る師匠に私は苗字の意味を伝えます。
夢よ来い。“サ”よ来い。そんな願いを込めた苗字であると。
師匠に初めて会ったあの日、教えてもらった“サ”という言葉……。
「なるほど。分かったわ。手続きは私がやっておきましょう」
でも……私がかつて見た夢の、その残り香がその名前に込められていること、
気付いたでしょうか。その名前に込められた私の……秘めた……願い……。
“夢”と“サ”よ、来い。私をその中に。
夢見ヶ崎さがみ師匠……。
ずっと、ずうっと、お世話してくれて……ありがとう。
――――――
――――
――
「ああ……いい気持ち……」
ベッドの上、両手両足首をベルトで固定され、十字型に拘束された夢追に寄り添い、
半ば覆い被さるような姿勢で、その胸に耳を当てるらちかは恍惚とした表情で呟いた。
「私の仲間になるって言ってくれて、それもこんなにあったかい音を聞かせてくれて……
大好きな人と、こんなに満ち足りた時間が過ごせるなんてね。……ふふっ、嬉しいな」
「そうですねぇ……」
「ねぇ?私、本当に嬉しかったんだよ?私の『エヴァーブルー』をあんなに褒めてくれて、
私の衝動の事を聞いても私の仲間の話をしても嫌な顔ひとつしないで分かってくれて」
「うん……」
語りながら、らちかは夢追の胸の上で笑い、己の脚を夢追のそれに強く絡ませ、
目の前にある穏やかな白い丘陵に浮かぶ血管を愛おしそうに指でなぞった。
夢追は小さく息を漏らし、くすぐったそうにその身を捩りながら、
大人しく、らちかの語る言葉を聴き続けた。
「……ねぇ?かなめちゃん」
「なぁに?らちかちゃん」
「かなめちゃんは人を殺した事ってある?」
「何度かは……。結構、魔人同士の抗争に参加してますから」
「……日常的に人を殺したいなんて、思う事はないかな?」
「あー……出来るだけ他人の夢を叶えるチャンスは妨害したくないと思ってるんで、
殺さずに済むならなるべく人は殺したくないですねぇ……」
「そっか……」
「うん……」
らちかは胸を弄っていた手を夢追の首筋に廻し、伸び上がるようにして互いの顔を寄せ、
夢追の耳に己の長い舌を這わせてから、しょうがないかな――と、くすりと微笑んだ。
さらりと重なり合う髪の毛の感触と、耳を這う濡れた舌の感触にぶるりと体を震わせながら、
夢追は、しょうがないですねぇ――と、くすりと微笑み返した。
「ねぇ?そういえばもう決まったかな?」
「何がいいか、ですか?」
「うん、そう。やっぱり前に言ってたミサンガ?」
「そうですねぇ……やっぱり直前のフィーリングってやつを大切にしようかなぁと」
「ふふっ。その時までのお楽しみって訳?」
「そんな感じですかねぇ……」
「期待しちゃうよ?」
「それはプレッシャーが掛かりますねぇ……」
夢追の血管で何を作ろうか、リボンもいいし、ハンカチもいい。
夢追のアイディアであるミサンガももちろん作ろう。
視界を覆う黒髪に鼻先を埋め、自身の金髪よりも長いその流れに指を泳がせながら、
らちかは楽しそうに夢想した。
一頻り髪を梳いた後、その爛と燃える瞳を眼前に運んできたらちかに、夢追は笑い掛けた。
額と額がぶつかり、鼻先同士がくっつきそうな距離で、互いの瞳を見つめ合う。
「ふふっ……それにしても、
こんな風に何になりたいとかどうしたいとか、相手と相談できるなんて……本当に幸せ」
「えへへ……そんな事言われるとくすぐったいですね」
「ふふっ……だーいすき」
***
――この辺で、終止符を打つのも悪くないのでしょうか。
――これ以上、生きなくとも良いのでしょうか。
――誰にも心配を掛けず、逝きたいように逝けるのなら……。
――本当にそれでいいのでしょうか?
――
――――
――――――
「へえ、報道部に。かなめが部活動に参加するとは意外だったわ」
「えぇ、なんでですか?」
珍しく師匠と二人きりで出かけたあの日、私は何を話したのでしたか……。
「なんで報道部に?」
「部長が絶対に外さない未来の『予報』をする能力者だとのことで……」
そう、
「早速、未来の情報を見てもらったんです。私がいつ死ぬか」
あの日に、
「答えは聞いていませんけどね。その方が楽しいですから」
私は、
「それで、私はその『予報』を外してやろうと思っているんです。
100%の未来予知能力を覆すなんて、凄くて、素敵じゃないですか。
起こしがいのある奇跡じゃないですか」
師匠へ……
「『予報』よりほんの少し長くだけでいいんです。
『予報』が外れて部長が驚く顔を見ることと、
師匠や友達に、生きたいように生きさせてくれてありがとうって
お礼を言うこと、この二つさえできれば」
後のことを頼んだのでした。
「それで、師匠。私がその夢を叶えた後のことなんですが……」
私が死んだ後のこと、私の死体の処理、私の大好きな親友二人のこと、
わがままだとは思うけれど、図々しいお願いだとは思うけれど、
師匠にならば全てを任せられるから。それで安心できるから。
「……わかったわ」
師匠にあんな顔をさせてしまって、凄く情けなかった。
もしかして、私の顔は胸の中以上に情けないものだったかも知れない。
でも、そんな私に、
「そうしたら、私からもひとつ、わがままを言わせてもらっていいかしら?」
「へっ!?あ、は、はい!!どうぞ!!何でも言ってください!!」
「あら、ずいぶんと嬉しそうね」
「だってだって、師匠が私にそんなこと言ってくれるなんて!」
「ふふ。それじゃあ……」
師匠は……
「かなめは、その夢を叶えるために、
いつでも、どこでも、なんでも、遠慮せずに私を頼って頂戴」
とても優しかった。
――
とても嬉しかった。
――
あの時、私は何と応えたのでしたか……。
確か……全力で……全身全霊で……胸に渦を巻く全ての思いを込めて……
「……はいっ!ありがとうございます!!」
そう、言った……気がする。
――――――
――――
――
今日は昔の夢を見た。
いや、このところ、ずっと昔の夢を見続けている。
どうしてこんなにも昔の事を思い出すんだろうか。
夢追は白い天井と、そこに嵌め込まれた蛍光灯の明りを見上げた。
***
床も壁も天井も白い、無機質な空間。
ベッドに横たわる夢追の傍に、らちかは逸る心を抑えながら佇む。
らちかに見守られるように、十字に拘束され、夢追はベッドに横たわる。
今日が運命の日だ。
「かなめちゃん……準備は整ったよ」
らちかは興奮で上擦ろうとする声を飲み込み、なんとか宣言した。
これまでの夢追との蜜月、細心の注意を払って、
夢追の血管を最高のコンディションで保存する下拵えをしてきた。
いよいよ今日、らちかと夢追の愛が最高のクライマックスを迎えるのだ。
もう何になりたいか決まったかな――期待に満ちた眼差しで、らちかは聴き、
そうですねぇ――と夢追は唸る。
リボンだろうか、ハンカチだろうか、それともやっぱりミサンガか。
大胆にも下着を希望してきたらどうしようか、そんな事を想像し、らちかは破顔する。
しかし――その答えを聞く前に、
「そうだ。その前に……ずっとかなめちゃんに伝えたかった事があるんだ」
夢追に伝えるべき、伝えたかった事を言わなければ。
「私の本当の名前」
「らちかちゃんの?……本当の?」
静かに時を待っていた夢追は、ゆっくりと首を動かし、
不思議そうな声を出して、らちかの顔を見た。
らちかにとっての大切な儀式。仲間に贈る大切なもの。
最後の最期に、愛する人に伝えておきたい事。
「私の本当の名前は裸繰埜夜見咲らちか。
魔人にして世界の抗生剤、仇成す者の集団である裸繰埜一族の1人」
謡うように名を告げ、らちかは笑う。
「ふふっ、やっと言うことができたよ。私の愛する人にしか教えない、とても大切なこと」
「らくりのやみさき……らちかちゃん」
らちかの言葉に、夢追は柔らかく微笑んた。
「綺麗な名前ですね」
「ふふっ、ありがと」
全ては順調に事が運んだ。
夢追は今日、これから、らちかの仲間に迎え入れられる。
***
綺麗な名前ですね――と、
素直な感想を口にした後、だが、らちかの言葉に何かが揺さぶられたように夢追は感じた。
いや、或は今日見た夢が、自分の中に眠っていた何かを揺さぶったのかもしれない。
何かが何処かに引っ掛かった――
それは避けられぬ死を目前にしてやっと働いた夢追の生存本能だったのか、
それとも、奇跡や運命といった類のものであったのか、
揺るぐ事のないと夢追自身が思っていた、夢追の想いが、決意が、
この狂気の宴を演じる中、初めて僅かに傾いだ瞬間であった。
「名前……愛する人にしか教えない、大切なこと……ですか」
夢追は目を瞑り、静かな口調で、独り言のようにぽつりと呟いた。
その言葉はらちかに向けられたものだったか、夢追自身に向けられたものだったか。
夢追の些細な変化に気付いてか気付かずか、
らちかは何事も無いように、嬉しそうに、夢追と遣り取りを続ける。
「うん。とても、とっても大切なこと」
とても大切なこと――
「なんで私に教えてくれたんですか?」
「ふふっ、そういう事聞くのって野暮って言うんじゃないかな?
かなめちゃんが大好きだからだよ。
好きな人に嘘を吐くなんて嫌じゃない。
愛している人には自分の事を何でも知って欲しいし、何でも教えたい。そうでしょ?」
何か……何かが胸に閊えている。
瞼の裏にある闇の中で、夢追は悶えていた。
「愛しているなら……自分の事を何でも知って欲しい……
らちかちゃんは……私の事を愛してくれているんだね……
えへへ……もう何度も聞いたけれど……」
この数日で冷え固まった表の自分が、ありがとうと感謝の言葉を述べる。
そんな自分を心の奥底から見詰める自分がいる――そんな錯覚を覚える。
自分の声が何処か遠くから発せられている気がする、と、夢追は思った。
自分は今日、これから、らちかの仲間に迎え入れられる。
本当にそれでいいのだろうか。
自分が本当に望んでいる事は一体何なのだろうか。
誰にも心配を掛けず、誰からも忘れられたまま、このまま死ぬ。
生きたいように生きた自分が、
病気に罹ったあの日から死を覚悟してきた自分が、
只一つ心残りであった、残す人達の事を考えずに逝ける。
それ以上の事が、何かあるというのだろうか。
「これからだって何度でも愛してるって言ってあげるよ。
もう今日からはいつでも、何処でも、ずっとずっと一緒だよ。
私は愛した人の事は絶対に忘れないからね。
私と、かなめちゃんと、仲間達と、皆で幸せに暮らそう」
「忘れない……」
「うん。絶対に、絶対に忘れないよ」
らちかの言葉に、それまで疼く事の無かった夢追の中の何かが泣き声をあげ始めた。
自分を愛してくれる人が名を告げる――何処かで見た景色だ。
自分の行く末を愛する人に告げる――何処かで見た光景だ。
愛する人に自分の名を告げる――何処かで見た風景だ。
――今日からお嬢様のお世話をさせて頂く夢見ヶ崎さがみです――
――あなたは、あなたのやりたいようにやりなさい。生きたいように生きなさい――
――夢を追うで……ゆめさこ?そして名前は中の字ひとつで……かなめ――
自分の死後を任せる――忘れられない情景だ。
――それで、師匠。私がその夢を叶えた後のことなんですが……――
忘れたくない願いだ。
『忘れない』
『忘れたくない』
自分の心に空いた空隙に、見失っていた最後の一欠けらが嵌め込まれた――気がした。
ああ、分かった。
死を目前にして、やっと気付いた。
この幾日か、燃え滾る愛を見せ付けられ続けて、やっと理解できた。
どうして昔の夢を見続けたかなんて――忘れたくないからに決まっている。
どうして昔の夢を見続けたかなんて――忘れられたくないからに決まっている。
私はこんなにも、師匠の事を――今でも、ずっと――
そうだ。
私も、好きな人に嘘を吐くなんて嫌だ。
好きな人に嘘を吐いたままなんて嫌だ。
夢追の中で散らばった点々の想いが結ばれ、形作られた。
夢追は目を開き、再びらちかの顔を見据えた。
らちかの顔の遥か向こう側に、新しい夢を見た。
***
「決まりましたよ。らちかちゃん」
決然とした表情でそう言い放った夢追に、
喜色満面、もう待ち切れないといった様相のらちかが早く教えてとねだる。
そこから先の夢追の動作は、流れるように行われた。
「私はまだ死ねません」
「え?どういう事?」
「まだ遣り残した事があるんです」
「何を言って……」
「失礼しますっ!」
――行って!
呆然と夢追の顔を見下ろしていたらちかの視界の中で、
不意に夢追の笑顔が大きくなり、らちかの視界を覆い尽くす。
らちかは強い力で引き込まれ、バランスを崩し、ベッドの上、夢追の体の上へと倒れ込んだ。
夢追に抱き留められたのだと理解するのに、らちかには数瞬の時間が必要だった。
***
――この辺で、終止符を打つのも悪くないのでしょうか。
――これ以上、生きなくとも良いのでしょうか。
――
――
――生きたい。
***
反転する視界。続けて聴こえる轟音。
らちかは自分が今、両手ごと抱え込まれるように、夢追に抱き留められていることを認識し、
酷く困惑していた。
何故夢追は両手を自由に使えているのか、手首を拘束していたはずのベルトはどうしたのか、
やっと私から抱き締められましたなどと言っている夢追の顔の上で、
首を捻ってなんとか状況を把握しようと努めた。
夢追の言葉にはまだ整理がついていないが、まずは現状の把握が先決だ。
廊下側の壁には大穴がぽっかりと黒い口を開け、かつて壁であった残骸を散らしている。
反対側の壁には丸く窪みが出来ており、中心部から蜘蛛の巣状の微細な亀裂が走っている。
ふと目線を下げると、蜘蛛の巣模様の壁の下に何か白い塊が落ちているのが目に入った。
あれは――
「手?」
思わずらちかは呟いた。
夢追の手首から先が、握り拳の形を作ったまま、床に転がっている。
「ロケットパンチです!」
らちかの呟きに、誇らしげな声で夢追が応えた。
「以前お話ししたじゃないですか。ちょっと前に手を吹き飛ばされてそれを治したって。
私の友達にロケットパンチ好きの子と人体改造が得意な蟻さんがいまして、
その方々が最近コラボして機能美特化型ロケットパンチとかいうものを開発したんですよ。
普段は本物の手!しかして、いざという時はロケットパーンチ!……えへへ、凄いよねぇ」
その応えにらちかは困惑する。
「魔人能力?……どうして?この拘束具には魔人能力を封じる力があるのに……」
「んんー、そうですね。恐らく特殊能力封印でしょうか?
ふっふふ、魔人能力を愛し続けた私がその疑問にお答えしましょう!
特殊能力封印っていうのは、既に掛かっている魔人能力を無効化する力は無いんです!
この場合、既に私に掛かっていた手・ロケットパンチ変換能力は防げないんですよ!」
何やら専門用語を交えて魔人能力を語り出す夢追は、近頃の落ち着きが嘘のように、
初めて出会った時のように、まるで子供のようにはしゃいでいる。
そんな夢追の浮き浮きとした声を聴きながら、
らちかは困惑を収め、徐々に冷静さを取り戻していった。
予想もしていなかったロケットパンチには確かに驚かされたが、
だからといって夢追がそのまま逃げ出せる訳ではない。
夢追の下半身は未だ拘束されているし、
自分の体を抱き締める腕にも危険を感じる程の力は込められていない。
そもそも、
「どうしてロケットパンチで私を狙わなかったの?チャンスならあったでしょ?」
夢追には、らちかに危害を加えようという意思が感じられない。
らちかの能力が解除されない事を恐れたのか。
らちかを害する事を避けたかったのか。
或は、そもそも逃げる気が無いのか。
両腕が自由になれば、逃げる算段をつける事も出来たのではないか。
それを、夢追は結局、らちかに抱き付くというだけのために使った。
らちかの訝りに、
魔人能力講釈を終えた夢追は一転押し黙ると、もぞもぞと頭を動かすばかりであった。
首を起こして夢追の表情を窺ってみると、何やら言いたげな、気恥ずかしそうな、
そんな顔でらちかをちらりと流し見ては目を逸らし、口をむずむずとさせている。
夢追を間近に観察しつつ、
らちかは当面の状況を飲み込み、今や完全に落ち着きを取り戻していた。
夢追は切り札を持っていた。しかし、それを攻撃にも逃げる事にも使わなかった。
つまり、夢追は自分へ危害を加える気も、逃走する気も恐らく無い。
では、何故こんな時間稼ぎをするのか。
それは「遣り残し」があるから。
最後の最期に、生きているうちにやらなければならない事があるから。
この状況で、出来る事。相手の顔を見ていては言えないような、心に残した事。それは――
「らちかちゃんに言いたい事がありますから」
躊躇いを終えて、夢追は少し恥ずかしそうに、そう言った。
ああ――らちかは頷いた。
「今日まで、らちかちゃんに見せてもらった事、教えてもらった事……
それらのお陰で気付けた事があって……
そのお礼を、それともうひとつお詫びを、どうしても伝えたいんです」
これは夢追の遺言だ。
***
片側の壁に大きな穴が、もう片側の壁には大きな亀裂が入った白い部屋の中、
ベッドの上に、抱き合う形で二人の少女が横たわっている。
夢追に身を任せ、大人しく話を聴く体勢でいるらちかと、
らちかの体をぎゅっと抱き締め、言い出す言葉を捜す夢追。
互いの鼓動が互いの心臓を震わせる距離で、
互いの頬と頬が触れ合う距離で、
静かな時が過ぎ――
夢追は、死ぬまで秘すつもりであった、捨てられぬ夢を吐露した。
らちかがこの数日で夢追に見せてくれたその愛情を、
歪で、歪んで、どうしようもないくらいに純粋なその愛情を思い出し、
この言葉がそんな愛情を与えてくれたらちかにどんな思いをさせるか、考えながら。
夢追の、らちか以外の誰にも聴かれる事の無い、独白が行われた。
「私、本当に此処でなら死んでもいいって、らちかちゃんになら殺されてもいいって、
初めはそう思ったんだ。誰にも心配されずに死ねるって素敵な事じゃないかって。
でも……らちかちゃんに教えられちゃったんだよ。
好きな人に自分の事を教えたいって、
好きな人に自分の事を聞いて欲しいって、
好きな人に忘れられたくない、ずっと覚えていて欲しいって。
ちょっと恥ずかしいけれど、ああ、愛の力ってこんなに凄いんだなぁって」
夢追の、それまでに聞いた事の無い口調に、らちかは黙って耳を傾けた。
虚飾の取れた、ありのままの夢追の心を、らちかは間近で直視している気がした。
「そうしたらね、やっぱり私は師匠の事が思い浮かぶんだ。
これまでずっと迷惑ばかり掛けてきちゃったけど、
我侭ばかり言ってきたけど、
だから、せめて最期くらい迷惑掛けずに終わらせられないかと思ったけど、
やっぱり私は我侭だから……
師匠に忘れられたまま死にたくなんてないよ……
師匠にはずっと私の事覚えていて欲しいんだよ……」
頬に触れる感触に、らちかは思わず声を出した。
「かなめちゃん?泣いてるの?」
夢追は何も応えない。
部屋は静まり返った。
夢追は今、何を思っているのか――らちかは考える。しかし言葉には出さず。
らちかは今、何を思っているのか――夢追も考える。しかし言葉には出さず。
夢追とらちかは、ただ互いの鼓動をその胸に感じ続けた。
やがて空白の時は明け――
徐に、夢追は声の調子を上げて、己の独白を結んだ。
「そういう訳で、私はらちかちゃんを一番に愛する事は出来ません。
心苦しいですが、これが私の偽らざる心です。
だから、らちかちゃんに言わなきゃならない事があります。
色んな事を教えてくれてありがとう。そしてごめんなさい」
***
らちかは夢追の独白を全て聴き終え、静かな溜息を吐いた。
「かなめちゃんがさっき言った『遣り残した事』って、今の告白?」
夢追は黙ったままだ。
ただ、らちかを抱く腕に、少しだけ力が加わる。
「その気持ち、私がずっと忘れないでいてあげるね。
ふられちゃったけど、かなめちゃんは私の大切な人だから。
ミサンガを作ってあげる。それをかなめちゃんの師匠に届けるよ」
らちかはこの数日間の事を思い出す。
夢追との、自分を認めてくれた存在との夢のような一時。
寂しい気持ちと、愛しい気持ちと、それらを超えた、腹の底から湧き上がる衝動。
らちかはそれらを綯交ぜにしたまま、夢追に優しく声を掛ける。
だから、この手を開いて――と。
夢追がどんなに焦がれた相手であろうと、今や夢追を覚えてはいない。
夢追がどんなに望もうと、既に夢追の居場所はここ以外何処にも無い。
だから、逃げる事も無く、この世に遺言を残す事を選択したのだろう。
夢追の未練をこの手で断ち切ってやろう、文字通り断ち切ってやろう。
そんならちかの言葉を聴きながら――
いえ、まだ――と、夢追は口を開いた。
「もうひとつ、遣り残した事があります」
そして、らちかにとって聴き覚えのある提案をした。
「最期にひとつ、賭けをしませんか?」
***
賭けのルールは明快。
夢追はこの場で師匠に助けを求める。
夢追の師匠が助けに来た場合、らちかは能力を解除し、夢追を開放する。
それだけである。
「師匠はいつだって私のヒーローでした。
ヒーローはヒロインのピンチにいつだって駆けつけてくれるものです!」
そんな風に笑う夢追を見て、それで気が済むならば――と、らちかは賭けを承諾した。
大声を出すから離れていてと体を開放されたらちかは、
ベッドから二歩程下がって夢追の様子を見守る。
衝動に任せ、直にでも夢追の首へメスを突き立てたいところだが、
自分は肉弾戦が得意ではなく、相手は手首から先が無いといえ、武術の心得がある。
やはり無茶はせず、大人しく賭けが終わるまで待とう、と、そんな事を考えながら。
そんならちかに対して夢追は気丈に振舞った。
「見ていて下さい。らちかちゃんはそんな事起こらないと思っているでしょうけど、
私は奇跡を起こす魔人です。らちかちゃんにしっかりと奇跡を見せてあげますよ」
「奇跡を起こすって、かなめちゃんの能力は使えないんだよ?奇跡は起こせないよ」
夢追の言葉を即座に否定するらちかであったが、夢追は不敵に笑った。
「能力が使えるとか使えないとかじゃないですよ。
起きないと思われている事が起きれば、それは即ち奇跡です」
強く言い放った夢追は、呼吸を整え、
「よく見ていて下さいよ。これが奇跡を起こす、私にとっての魔法の言葉です」
大きく息を吸い込むと、
戸惑い無く、
躊躇い無く、
遠慮無く、
――いつでも、どこでも、なんでも、遠慮せずに私を頼って頂戴――
「助けて師匠おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーー!!!!!!!」
絶叫した。
***
部屋中の空気がびりびりと振動する。
それは傍にいたらちかもたじろぐ程の大声であった。
音の波は部屋の中で反響し、らちかの鼓膜にうわんうわんという歪な音を残して消えた。
音の波が消え、部屋は元のように静まり返る。
壁に空いた穴の上部から、細かい破片がぱらりと落ちた。
肺の中の空気を全て搾り出した夢追はぜいぜいと荒い呼吸を繰り返している。
部屋の中に、夢追の呼吸音しか聴こえなくなったのを確認し、らちかはベッドに近付いた。
もう、気は済んだかな――そう、声を掛けようとしたらちかであったが、
足音がした。
背後からだ。
夢追は言った。
起こらないと思っていた事を起こせば奇跡である。
起こらないと思っていた事が起きたならば、それは奇跡である。
らちかは喉を竦ませ、体を硬直させた。
まさかそんな事が起こるはずは無い。
しかし、
驚き、混乱する頭でらちかは音のした方向を見る。
壁に空いた穴、
夢追によって空けられたその穴から、
壁に空いた穴から、現れないはずの人物が現れた。
「お邪魔するわね」
奇跡は起きた。
***
「寝ている娘がゆめさこさんね」
壁の穴から入ってきた人物は、部屋の中の様子を見てこう言った。
「師匠!ありがとうございます!」
そんな人物を見て喜びの声をあげる夢追と、
「どういう経緯でこうなっているのか、ちゃんと教えてね」
そんな夢追に自分の上着を被せてやっている人物を見て、
「嘘……どうして……?」
らちかはそう言う事しか出来なかった。
その声を聴いた夢追はらちかの方を向いて悪戯っぽく微笑み、
「賭けは私の勝ちですね!
約束通り能力を解除してもらえますか?」
勝利宣言をした。
らちかの部屋に突如現れた人物こそ、
確かに夢追のSPであり武術指南役である、夢見ヶ崎さがみその人である。
二度目の賭けは、夢追に軍配が上がった。
***
結局、らちかは賭けの約束を守り、夢追を開放した。
あえて賭けの約束を守る必要など本来ありはしないが、らちかは約束を反故にしなかった。
戦闘向きではない自分の身体能力と、新たに現れた夢見ヶ崎の戦闘能力の分析・比較、
ここは自分のホームグラウンドであるといえど、
既に訳も分からないうちに部外者の侵入を許している今、地の利があるかどうかも怪しい事、
そして何より、絶対の信頼を寄せていた自分の能力が破られた事、
それらによる戦意喪失が原因――あえて理由を挙げるならそんなところだろう。
床も壁も天井も白い無機質な、閉じられた空間。
今は、両方の手首から先を失い、傷だらけの素肌に師匠の上着を掛けられ、
幾日もまともに体を動かしていなかったためにふらつきながらベッドを降りる夢追と、
それをそっと支える、夢追の師匠である夢見ヶ崎、
そして、その傍らでぼうと立ち尽くすらちかが、その閉じられた空間を開放せんとしていた。
「ねえ、どうやって――」
夢追を拘束具から開放したらちかは、
どうやって自分の能力を破ったのか聞かずにはいられなかった。
何故、夢追の事を忘れたはずの夢見ヶ崎が現れたのか。
確かに、夢見ヶ崎は夢追の事を忘れていたはずである。
確かに、この場に現れた夢見ヶ崎は夢追の事を忘れたままであった。
それなのに――何故。
「それではこっそり教えちゃいましょう」
体を解し、帰り支度をしながら、夢追はらちかに種を明かした。
立て板に水を流すが如く、勢いよく明かされる“奇跡”の種は、
あまりにも儚く、そしてらちかにとって予想外のものであった。
「『エヴァーブルー』は確かに強力ですが……ふふふ……素敵……失礼、弱点もあります。
それは、皆が私の事を忘れても私は私の事を忘れないし、皆の事も忘れないところです!」
「それの……何が弱点なの?」
「私の友達にすっごく沢山の友達がいる友達大好きの人がいるんですけど、
その人が教えてくれたんですよ。コミュニケーションに大切なのは相手を知る事!」
「話が見えないよ」
「私は師匠が昔から世界中で人助けをしていた事も知っているし、
師匠が物凄く面倒見の良い人だという事も知っているし、
師匠が物すっごくお人好しだという事も知っています!
そんな師匠がもしもビジネス用の番号に電話が掛かってきて、
通話先の相手があれだけ取り乱していたら、
例え知らない人であろうとも何かお節介を焼こうとするに決まっています!
それに魔人相手に百戦錬磨の師匠なら、
自分が記憶操作や別世界に飛ばされる魔人能力などを受けている事も、
きっと想定して行動してくれるでしょうし!」
私達の絆の勝ちですねと胸を張る夢追に、らちかは愕然とした。
まさかそんな曖昧な理由を信じ続けていたのか、と。
そしてまさかそんな曖昧な理由によって自分の能力が破られたのか、と。
相手を知る事――相手が自分を知らずとも、自分が相手を知ってさえいれば。
だが、
「でも、それじゃあ納得出来ないよ。
どうしてこの場所が分かったの?ここは私達以外誰も知らないはずの場所なのに」
釈然としないらちかは、なおも食い下がる。
夢追の事を覚えていない夢見ヶ崎が助けに来た理由は分かった。
しかし、どうやってここへ助けに来たのかが不明である。
すると、夢追は頬を染め、やや恥ずかしそうに、
「……桃3つです」
と、呟いた。
意味が通じず、眉根を寄せるらちかに、一層顔を赤らめながら、夢追は説明した。
「さっきも言ったじゃないですか。
『エヴァーブルー』は、私は私の事を忘れないって。
らちかちゃんの認識では、
私が食べた、私のお腹の中にある物はやっぱり私だったんじゃないですか?」
夢追の言葉にらちかは目を見開いた。
夢追を護る付喪神の社は、夢追に衣食住を全て提供している。
じゃあ社が夢追に提供している食べ物とは社の一部という事。
「あの時の……」
夢追が吐き出した物は、水で洗い、排水溝の中へ……そしてその後は……
「お腹から出てきた社は私の事を覚えていてくれましたから、
こっそりと周囲の様子を調べてくれていました」
――この辺で、終止符を打つのも悪くないのでしょうか――
――これ以上、生きなくとも良いのでしょうか――
「社はいつも私に話し掛けてくれていました。
社の言葉は私にしか聴こえないので、堂々と、でもこっそりと、ですね」
「それじゃあタイミング良くかなめちゃんの師匠がやってきたのも……」
「はい!こっちの社と本体の社に連絡取ってもらって、
師匠を転送してもらったんです。
そもそも私が帰りたくなったらいつでも助けますよーって、社は待機してくれてたんで、
ちょうどあの時、社に助けてくれるように頼んだんですよ」
――生きたい――
――御意――
「えへへ、ごめんなさい。あの時らちかちゃんに抱き付いたのは、
師匠を呼ぶまでの時間稼ぎでした!」
もちろん感謝の言葉とお詫びの言葉を伝えたかったのも事実ですが――と付け加え、
全てを語り終えて満足そうな笑みを浮かべる夢追を前に、
それであの悪戯っぽい笑顔だったのかと、らちかは肩を落とした。
「じゃあ……もしかして最初から全部演技だったの?」
らちかの落ち込み気味の、探るような視線を受けて、夢追は得意絶頂になるかと思いきや、
ばつが悪そうに目線を泳がせ、再び頬を赤らめてごにょごにょと口を動かした。
「ぇ……いぇ……そのぅ…………素です。
本当に、今日になるまで、死んでもいいかなぁと……でも……」
これまでの事、二人だけの秘密にしてもらえませんか――そう、口篭りながら言う夢追に、
らちかは脱力して笑うしかなかった。
「まんまとしてやられちゃったな」
らちかの降参宣言である。
それは運命か、奇跡か、はたまた夢追達の絆故か。
ともあれ、こうして夢追は再び自由を手に入れた。
***
「いつでも遊びに来て下さい!今度は私が手料理を振舞いますから!」
「私の本当の事を知っているのに、それでも?」
「はい!また改めてお友達になりましょう!」
「私とそんな普通の友達になれると思うの?」
「大丈夫です!私、幽霊さんとも触手さんとも仲良しです!親友は鷹と家です!」
「また能力を発動しちゃうかもよ?」
「その前に蹴っ飛ばして手足を縛り付けて、今度は私があーんしてあげますよ!」
「我慢できずにその場でメスを突き立てるかも」
「大丈夫です!何かあると直に蜂をけしかける友達に殺され慣れてます!」
「ふふっ、何それ」
「……らちかちゃんの『エヴァーブルー』は素敵な能力です」
「んん?」
「使い方次第できっと沢山の人に安らぎを与えることが出来ます」
「んー」
「ですから、私と一緒にらちかちゃんもその能力を求めている相手を探しましょう!」
「……」
「夢は皆と一緒に見る方がずっと素敵なんですよ!」
「じゃあ……考えておこうかな」
「わーい!」
「……でも」
「でも?」
「あの時の事、私の耳元で囁いたあれ、本音でしょ?」
「うっ」
「他の女の事をあれだけ言われたら百年の恋も冷めるってものだよねー」
「うぅ……」
眩しい太陽光の下、二人の少女が姦しい声をあげている。
その様子を少し離れた場所から見守っていた夢見ヶ崎は、
「……まあ、一件落着って事……なのかしら」
安堵の色を滲ませた声で、独りごちた。
***
夢追と夢見ヶ崎は並んで帰路に着いていた。
歩いて帰りたいという夢追の希望によって、
社の一部は全てオウワシ――後から態々来てもらったのだが――に渡して先に帰ってもらい、
今はただ二人きり、ゆっくりと舗装道路の上を歩いている。
「遅くなって御免なさい」
夢見ヶ崎の謝罪に、
「いえ、師匠は私が助けを求めてから直に来てくれましたよ」
夢追は笑う。
「それに、何が起こっても、やっぱり、
助けを呼べば師匠は助けに来てくれるって分かってましたし」
夢追は立ち止まり、夢見ヶ崎の顔をまっすぐに見上げた。
その表情は、絶対に揺るがない信頼の気持ちに彩られていた。
「師匠が私の事を忘れたのは本当に驚きましたけれど、
それでもそこだけは心配していませんでしたよ。
だって、師匠が私の事を忘れたって事は、私の事を忘れても、
私を助けるのに何の問題もないって、そういう事じゃないですか」
夢見ヶ崎の能力『Royal Guard』は、
護衛対象である夢追を護る事を阻害する事象を無かった事にする能力である。
その能力が発動しなかったという事は、つまり、
夢見ヶ崎にとって、夢追の記憶を失おうと、夢追を護る事に何ら問題は無いという事。
「……嬉しかったです!」
夢追は少し照れ臭そうに、それ以上に嬉しそうに、夢見ヶ崎へと告げた。
「ありがとうございます!やっぱり……師匠は間違いなく私のヒーローですよ!」
「……ありがとう」
再びゆっくりと、二人は並んで歩いていく。
昼過ぎの時間帯、この辺りは外を出歩く人も無く、周囲は閑散としている。
「ねえ、師匠」
夢追の呼び掛けに、
「何かしら」
夢見ヶ崎は応える。
「改めて師匠に伝えたい事があるんです」
「そんなに緊張するような事?」
「はい」
「いいわ。聞きましょう」
「……師匠」
「はい」
「大好きです」
<終>