迷い家


どうも落ち着かないなと男は思った。
しっくりこない。
居心地が悪い。
座布団の上に乗せる尻の位置を何度も変えつつ、男は部屋の中を見渡す。
目の前の囲炉裏ではくべられた薪が赤々と燃えている。
自在鉤に下げられた鍋からは白い湯気が薫る。
広い板敷きの間、厚い土壁、高い天井。
そして、

「どうぞ、召し上がってください」

自分へと差し出される椀と、その椀を持つこの屋敷の女主人。

「いただきます」

何故、この女はこうも私を歓迎するのか。
どこか腑に落ちない。

「へぇ、こりゃあ美味しい」

心持ちを悟られぬよう、ことさら明るい声を出す。
胸のつかえは、受け取った汁物を飲み込んでも流れ去ってはくれない。

「ふふ、喜んでいただけたようでなによりです。今回はとびきりのお肉を使って腕を揮わせてもらいましたから、そういう言葉をいただけると本当に嬉しい限りです」
「いや、お世辞抜きにこれは大したものですよ。こんな美味しいものを食べたのは初めてかもしれません」

私、料理の腕には自信があるって、もう話しましたでしょうか――女は嬉しそうに言う。
聞き覚えのある台詞だ。
この女に料理を振舞ってもらうのも既に片手で数えるには足りない回数になる。
食事のたびに益体もない話をあれこれとした。
だが、肝心なことは何も聞けていない。

「それにしてもこんな山奥で、しかもこんな雪の時期に、よくもこんな肉が手に入ったものですね。まさかあなたが狩猟をなさるわけでもないでしょう」

違う。
聞きたいことはそんなことじゃない。
良い肉を手に入れる当てがあるのですよ――女の言葉を聞き流しつつ、男は煩悶する。
私が聞きたいのは、

何故――

何故、私にこうも良くしてくれるのでしょう――

女が話を止め、おかわりはいかがでしょうと聞いてきた拍子に、ありがたく頂戴しますと椀を差し出しながら、男はようやく最前からの疑問を口にした。

何故、私は見ず知らずの人間なのに。
何故、私は招かれた客でもないのに。
この屋敷に留まって三日である。
最早、聞かずに済ますことはできなかった。

「何故って――」

こんな山の中で、しかもあたりは雪で閉ざされている中で、道に迷っている方が訊ねてきたのに、追い返すほうが珍しいんじゃないでしょうか。私、そんなに薄情に見えるのでしょうか――おどけた口ぶりで、女はそう答える。
確かにそう――だろうか。
そんな気もする。
普通の人間が山道に迷い、普通の人間がそれを見つける。外は雪が積もっている。こりゃあ大変でしょう、どうぞ山の機嫌が良くなるまでこの家で休んでいってください。そうなるのかもしれない。
普通の人間ならば。

「どうかなさいましたか」

女がこちらの顔を覗くように身を寄せてくる。
ああ、いけない。
何か言葉を続けなければ。
何か、言葉を。
不審がられてはいけない。
この女の興味を惹けそうなこと。

「いやあ、お話を伺っていて、ちょっとした伝承を思い出したんです。“迷い家”という伝承で――ここは私にとっての“迷い家”なのではないか、などと、そんなことを考えつきまして」

迷い家――鸚鵡返しに言葉を発し、女はこちらを窺う。
その視線に混じる好奇心の光に、一層の居心地の悪さを感じる。
思う通りに気を惹けた。
気を惹けたというのに。
そんなに私を見ないでくれ。
いや、そんなことより、今は話を、

「迷い家というのはもっと北の地方に伝わる迷信でして、山道に迷うと行き着くと言われる家のことです。山の中に突如として立派なお屋敷が建っていて、中に上がりこんでも住人は居らず、ただ、客を歓迎するかのような支度だけがなされている。そしてその家の小物を持ち帰った者には幸運が訪れると言われています」

この家には私が居りますけどねと女は笑う。

「なんとか山から下りて、村人を引き連れてそのお屋敷を探しても影も形もない。迷ったときにしか見つからないから“迷い家”と言うのでしょう。――ですから、ちょうど山の中で道に迷った私を助けてくださったし、そしてこんなにも美味しい料理を振舞ってくださった、この家は私にとっての“迷い家”なのかもしれないと……まあそんな世迷言を思いつきましてね」

そんな不思議な幸運でもない限りこんな美味しいものは食べられそうにないですから――男は言葉を結ぶ。
そんな素敵な伝説に喩えられるなんて畏まってしまいます――男の言葉にそう返答し、また、女は笑う。
居心地が悪い。
じっとしていられない。
女はまた、山の外の話や面白い話はないものかと、水を向けてくる。
思いついたことを適当に話し、女の話に相槌を打ちつつも、しきりに尻の位置をずらす。
どうにか、
居心地よく座ることはできないものか。
今日もまた、益体もない話が続く。


***


「そういえば――」

ひとしきりの話を終えた後、思い出したように、女は言った。

「その消えてしまうという“迷い家”――居続けるとどうなるのでしょう」

囲炉裏の薪がぱちりと爆ぜた。


土蔵の床に寝転がりながら、男はぼんやりと目の前の暗闇に視線を彷徨わせる。
この屋敷は何かおかしい。
やはり、言い知れぬ居心地の悪さは続いていた。


***


数日前、男は雪の降る山道を歩いていた。道に迷っていたのだ。土地勘のない場所で、下準備もなしに山へ分け入ったのだから当然といえば当然である。
麓に人の住む場所もない辺境といえる場所で、そんな場所のさらに山深い場所で、上に行けば良いか下に行けば良いかすら分からず途方に暮れていたところへ、追い討ちをかけるように雪が降り出した。
これ以上は動くこともできないと男が諦めかけたとき、目に飛び込んできたのがこの屋敷であった。
助かった。男は思った。もうこんな山道を歩く必要はないと。

その屋敷は人の気配もなく、山の緑と雪の白の中、静かに佇んでいた。
男は土間に上がりこみ、屋敷の様子を窺った。はたしてここは既に住まう者の居ないところであろうかと思ったのだ。
屋敷の中にはやはり人の姿がなく、静かなものであった。竈はぽっかりと口を開け、壁の棚もがらんとしている。
しかし、土間と座敷を仕切る板戸の、半分ほど開いたその奥から、暖かい空気が流れてきていた。
男が板戸の隙間から中を覗くと、座敷の中央にある囲炉裏には火が入れられており、鍋がくつくつと煮えていた。
その光景に目を奪われていたとき、男の背後から不意に人の声がした。
男が驚き振り返ると――女が、不思議そうにこちらを見ていた。

家人は屋敷の大きさにそぐわぬ女一人であった。そして女は快く男を迎え入れた。
男は女の世話になる気はそもそもなかったのだが、女に出された料理を食べているうち、長旅の疲れが表に出たのか、気が緩んだのか、何をする気もなくなってしまった。
諾々と流され、屋敷の裏にある土蔵を寝床に借り受け、気付けば女の世話になるまま何日もこの土蔵へ留まり――土蔵で寝起きし、女に出される料理を食べ、愚にもつかない話をする。ただそんな一日を繰り返している。


***


男は寝返りを打つ。
体の動きに合わせて思考までゆらゆらと揺れ、覚束ない気がする。

なぜこんな屋敷が山の中にあるのか。
なぜこんな屋敷に女一人が住んでいるのか。
この土蔵も、大きさの割に中はほとんど空である。
そもそも、あの女はどうやって生計を立てているのか。

いくつもの疑問が男の頭をよぎるが、何を聞くこともできていない。
屋敷に住む女について知ったことといえば、女が怪談や伝説といったものにいたく興味を持っているということくらいである。他愛もない話を繰り返し、分かったのはそれだけだ。

――いや、いや、よそう。

男は頭を掻き、どんどんと転がる己の思考を止めた。
あの女は道に迷った私を善意か、哀れみか、どちらにせよ拾ってくれた。
そして寝床として土蔵と、寝具一式を貸し与えてくれた。
おまけに美味い料理まで振舞ってくれる。
あの女はただ、噂話や奇妙な話が好きな、お人好しである。
それでいいではないか。

どうもこのところ気が立っている。
この屋敷に転がり込み、この土蔵で寝泊りするようになってから。
見張られている。誰も居ないはずなのに。
視線が――
どこからか見られている気がする。誰も居ないはずなのに――そのせいだ。

いや、違うか。

土蔵の中は隅々まで調べた。
誰かが隠れているはずもない。
見られているという気がするのもまた、己の心が粟立っているがために感じられるものに過ぎない。
詰まるところ、全ては気の弱りだ。

そう。

あの女が私に優しくするのも、何も知らないからに他ならない。
こんな遠くまで来たのだ。
こんな山の中まで来たのだ。
今更、何を恐れることがある――

思考の中へ、不意に何処からか響いたガタリという音が混じり、男の意識を現実へと引き戻した。

「失礼しますね」

続けて聞こえた女の声に、男はぎくりと肩を震わせた。
見れば、土蔵の扉を開け、女が中に入ってくる。
手燭の灯りに照らされ、土蔵の闇の中に女の姿だけがぼうと浮かび上がっている。
男は体を起こし、女へ歓迎の意を見せた。
大丈夫だ。
今更、何を恐れることがある。

「お夜食をお持ちしました。それと」

そろそろ山の天気も落ち着くでしょう――そう女は言った。
そうですか――当たり障りのない返事を男は返した。

盆を持って近付く女を眺めながら、男は女に悟られぬようため息をついた。
そうか、やっとこの屋敷から出ることができるのか。
この居心地の悪さともお別れだ。
そうだ。
天気が良くなったらすぐにこの屋敷を出よう。
ここを出て、

そして――

それから――

それから?

どうするというのだ。

さらに遠くへ、さらに山奥へ、
誰も居ない場所を目指すというのか。

はて、
そもそも、
私は何故この屋敷に――

ふっと男の意識が揺らぐ。
女の差し出した盆を受け取り損ね、盆に置かれた椀ががちゃりと音を立てる。

「あっ」

我に返り、慌てて椀を押さえた男の手と、同じく椀を押さえた女の手が重なり合う。

「あ」

男は熱い物に触ったかのように慌てて女の手から自分の手を離す。
落ち着け、
落ち着け、
落ち着いて、何事もなかったかのように――
こちらを見て小首を傾げる女から、男は改めて盆を受け取った。
女は二言三言、どうでもよいことを喋り、食事用にと手燭を置くと、踵を返した。

「それでは失礼します」

女が出ていき、再び静寂に包まれた土蔵の中、男はため息をつく。
全く、私は何をやっているのだ。
女が置いていった握り飯を齧り、茶を啜り、心を落ち着かせようとする。

本当に。
私は何をやっていたのだ。

女の声が耳の底に澱のように溜まっている――

私は何を考えていたのだったか。
この屋敷のこと。
この屋敷にどうして、

女の手の白さが目の裏に焼き付いている――

女。
あの女。
ああ、考えがまとまらない。
どうしてこう、あの女は居心地を悪くさせるのか。

手燭の灯りに手を差し出し、先ほど女の手に触れた箇所を照らす。
いつまでこのような思いをしなければならないのか。
女の手に触れた箇所を、そっとなぞる。
いつまでこのようなことをしていなければならないのか。
女の手から感じられた温かさと、柔らかな感触を思い出す。

私は、
いつまでこのような、

我慢を――

男の胸に圧し留められた衝動が、ちりちりと燻ぶり、焦げた臭いを発する。

どこからか感じられる視線は、未だ消えない。


明日には山の天気も晴れるでしょうと女は言った。
それでは今晩がここに泊まる最後の夜ですねと男は言った。


***


それで本当に良いのかと、土蔵の床に寝転がりながら男は思った。
既に日は暮れ、灯りもなく暗い土蔵の中で何をやることもない。
男はこの屋敷のこと、そして明日からの身の振り方を考え続けていた。

今日もたっぷりと美味い料理を振舞われた。
広い板の間で、囲炉裏にあたり、高い天井を見上げ、
ただただ無駄な時間を過ごした。
雨も降らず、風も吹かず。
当然だ。
屋敷の中に居るのだ。
思えば、なんと満ち足りた場所であったろう。

雨にさらされて凍える日々が、
風にさらされて寝れぬ日々が、
歩けど歩けど足を止められず、疲れ切っていた日々が男の脳裏を過ぎる。

また歩かねばならないのか。

遠くへ、遠くへ、
山奥へ、山奥へ、
誰も居ない場所へ。

この、屋敷を出て。

何故、この屋敷が居心地悪いなどと――今更ながら、男は思う。
あの時以来、もっとも充実した一時を過ごせた場所ではないか。
何故、この屋敷を出ようなどと思っていたのだ。

屋敷を出て何処へ行くというのだ。
何処へ行けばいいのだ。
どうすれば、
どうすればいい。

どうして、この屋敷が居心地悪いなどと。
誰かに見張られている気がするからか。
誰に。あの女に。いや、見張られていないことなど、とうに確認したというのに。
あの女に――

そうだ、
あの女。
屋敷を出るというなら。

――あの女を、見逃すのか。

男の胸に、再びちりちりと焼け付く衝動が湧き上がる。
椀を差し出す白い手が。
可笑しそうに笑う顔が。
好奇心に光る眼差しが。
覗き込むように窺う仕草が。
暗がりの中で一瞬触れた肌の感触が。
意識の底にこびりついて離れない。
忘れられない。忘れられるわけがない。

忘れられるようならば、こんなところまで逃げることにもならなかったのだ。

逃げて、逃げて。
この屋敷を見つけたのだ。

見つけて――

助かったと――

これ以上、歩かずに済むと――

これ以上、逃げずに済むと――

男は暗闇の中で目を見開いた。
この屋敷を見つけた日、あの時のことを、やっと、鮮明に思い出した。
あの時、何を見て、何を思い、どうしてこのようなことになったのか。

そうだ。
思い出した。
この屋敷を見つけて、何のためにわざわざ中へ立ち入ったのだ。
もう、これ以上遠くへ行くことに、山奥へ行くことに疲れたからではなかったか。
ここならば十分なのではないかと。
もう誰も追ってこない。
もう誰も近くにはいない。
ここならば。

それがどうだ。
出くわした女に招かれ、食事を出されただけで。
情にほだされたというのか。今更。
あるいは、情があるように振舞いたかったというのか。今更。
大人しく飯を食い、居候のようになるべく迷惑をかけぬようになどと気を張って。
己の欲望を押さえつけるあまり、気付けば居心地の悪さに、屋敷を出ることばかり考えて。

何故、思い出せなかったのか。
ほんの一時、人の情に触れ。
ほんの一時、人の姿を演じてみたくなり。
その演劇の幕が降ろされるまで、己が人の姿を演じていることすら忘れていたかっただけだった。
馬鹿なことをしていたものだ。
今更私は何をやっていたのだ。

そうだ。
とうに答えは出ていた。
居心地が悪いなどと、己の抑えがたい衝動の言い訳に過ぎない。
視線を感じるなどと、追っ手への恐怖が見せる幻覚に過ぎない。

そうだ。
ここは良い場所だ。
訪れようとする者は誰も居ない。
迷い人しか来ることのない屋敷。

もう十分遠くへ来たではないか。
もう十分山奥へ来たではないか。

ここならばもう我慢する必要はないではないか。

男は上体を起こし、土蔵の入口に目を向ける。
ここ数日、あの女はここへ夜食を届けに来る。
この暗闇でははっきりと時間など分からないが、いつもならそろそろ来る頃合だろう。

男の腹の虫が鳴く。
ああ、空腹だ。
もう我慢できそうにない。


***


「失礼しますね」

土蔵の中に女の声が響く。
闇に溶けていた扉が、漏れこむ外の光に切り取られ、輪郭を表す。
開いた扉の隙間から、盆と手燭を持った女がするりと入ってきた。

「お夜食をお持ちしました」

女はこちらへ、土蔵の中心へとゆっくり歩み寄ってくる。
ああ。
ちょうどよい。
空腹でたまらなかったのだ。

「ありがとうございます。ちょうど小腹が空いていて」

腹の虫が鳴いて。

「まあ、それは本当にちょうど良かった」
「いつもお世話になります」

女から盆を受け取れる距離まで近づいて、
初めてしっかりと女の顔を見た気がする。
存外、若い。
ああこれは、

「これは美味しそうだ」

ありがとうございますと、盆を手にしたまま女は嬉しそうに笑った。
揺れる灯りに明滅するその表情を見て、男もまた嬉しそうに笑った。
ああ、綺麗な笑顔だ。
その笑顔を見て、もう居心地が悪いなどと感じることはない。

「最後の夜まで手間をおかけして、申し訳のないことです」

男の言葉に、好きでやっていることですからと、笑いながら女は答える。
そう言ってもらえるとありがたいことですがと、男は返す。
その声を聞いて、もう居心地が悪いなどと誤魔化す必要はない。

「できれば恩返しなどしたいのですが、私はこの通り何も持ち合わせがありませんもので」
「いえ、いえ、そんなお気になさらずに。私も話し相手ができて、楽しい時間を過ごすことができました。各地の怪談話など、どれも面白いものばかりでした」

できればゆっくりと味わいたいものだ。
女の気を惹いて、土蔵から逃げることなどできぬよう、逃げ道を塞ごう。
簡単なことだ。

「それならば……そうですね、せめて今夜はとびきりの怪談話をひとつ」

お聞かせしましょう――男の言葉に、それは願ってもいない素敵なお礼ですねと女は笑う。

「この蔵を見ていて思い出した怪談話です」

土蔵の中へ視線を泳がせ、数歩、壁のほうへと歩み寄りながら、男は語る。
遠ざかる男の姿を追って、女が好奇の視線を向け、どんな話でしょうかと嬉しそうに訊ねてくる。
灯りの届かぬ暗がりの中、男は笑みを浮かべ、ゆっくりと蔵の壁を沿うように歩き、語る。

「なんでも、この世のどこかに、蔵に住み着く鬼が居たのだそうです」

どうしてもあの女の肉を喰らいたかった。
骨を噛み砕き、血をすすり、いや、まるごと。

「蔵に身を潜め、そこへやってきた女を一口でまるごと呑み込んでしまう」

気付けば、私にはそれができるようになっていた。
できると確信したその日、私は初めて人を喰った。

「鬼は思うままに人を喰ったが、ある日とうとう、退治されそうになる」

気付かれ、追われ、逃げて。
どこか遠くへ、誰も追ってこない山奥へ。
逃げ切って、
そうしたら、また――

「逃げた鬼は、山奥に佇む蔵を見つけ、そこに身を隠し」

また――

「また、獲物が訪れるの待っているのだそうです」

土蔵の入口を背にして、陰法師となった男は笑う。
その鬼に見つかったら私も食べられてしまうでしょうか――灯りに照る女は笑う。
勿論だ。

「鬼の名は――“鬼一口”」

“鬼一口”

私の魔人能力、“鬼一口”。
好きな女を一口で丸呑みにする能力。
ただそれだけの力だが、私にはそれで十分だ。

「その鬼の口は大きく裂け、女を一呑みにできるほど広がり、赤黒い喉を見せつけ、恐怖に竦む獲物を食べる」

まあ凄い――などと、身を竦める仕草をして笑う女のほうへ、男は歩き出す。

「新しい蔵を見つけた後、その鬼がどうしているのか、その後の話は人の口から未だ漏れ聞きません。もしかしたら、こんな山の中、このような蔵の中、あなたのすぐそばに、その鬼は潜んでいるのかも知れませんね」

もう逃げ場はない。
女の後ろには厚い土壁しかない。

「これにて私の怪談話、“鬼一口”はお仕舞いです」

のっぺりとした影になっていた男が、灯りに近付き、その姿に再び色が与えられる。
そんな男の顔を見つめ、

「素敵なお話をありがとうございます。とても興味深いお話でした」

怖いと言ったほうがいいのかしら――女は笑う。

「ですけれど、とびきりの怪談と言うからには――そのお話、もちろんまだ肝が残っているのでしょう」

そして、女は好奇と期待の混じった目で男を見つめる。
勿論だ。
とびきりの肝がある。

「勿論です」

女の問にそう答えた男は、口を開く。
大きく、大きく。女を呑み込めるほどに。


魔人能力“鬼一口”


男の口は大きく裂け――

女が闇の中で膨らむ男の影に目を見開いたのが分かる。

「この話にはひとつだけ、嘘が混じっているのです」

女を一呑みにできるほどに広がり――

おにひとくち、と、女の呟きが聞こえる。

「それは、この話が怪談話だということ」

灯りに照らされ、男の赤黒い喉が蠢く――

ああ、と女が声にならない吐息を漏らす。

「そう、全ては私がこの目で見て、この耳で聞き、この口で味わってきた話をしたまで」

私が鬼一口です――男の歪な口から、鬼の笑い声が聞こえた。

鬼となった男は歯を鳴らし、眼前の獲物を見据える。
さあ、
お前は、
どのような、
どのような顔を見せてくれる。
どのようにもがいてくれるのか。
どんな感触を喉に伝えてくれるだろうか。


***


闇に沈む土蔵の中、女の手に持つ盆に乗せられた手燭の灯りだけが音もなくゆらめく。
その灯りの輪の内で、

「やっと、その気になってくれたのですね」

嬉しい――と、濡れる瞳に手燭の火を燈し、女は笑った。


この女はなんと言ったのだと、男は大いに戸惑った。
嬉しいと言ったのか。
やっと、と言ったのか。
男は眼前の女を見据える。
華美でなく、しかしみすぼらしいわけでない着物。椀と手燭を乗せた盆。心許ない灯りが闇の中に女の姿だけを浮き上がらせる。
女の白い顔が笑っている。嬉しそうに。愉しそうに。

「し」

知っていたのかと男が問う前に、知っていましたと女が答えた。
何故。
なにを。
どこまで。
女の白い顔が笑う。

「あなたが魔人であることも、あなたが人を喰う能力を持つことも」

全て知っていますと女は言った。
ことりと女の履物が床を鳴らす。
一歩。
女は男に近づいた。

「怪談あるところに魔人あり、などと申すでしょう。私が怪談を好むのは、そこにきっと魔人が関わっているからです」

あなたのことも、あなたの怪談も、聞いていました。だから私の能力で、あなたのことをずっと追っていました――女の言葉に、男は目を見開く。
そうか、お前も。

「私も魔人です。遠くの物事を知ることができるのです」

あなたのことを知って、ずっとここへ来て欲しいと願っていました――男に顔を寄せる女の頬は上気している。潤んだ目が男を見つめる。
その視線を受け、男はたじろいだ。
いつの間にこんなにも近づけてしまったのか。こんなにも得体の知れないものを。
進むか、退くか、考えなければ。
この女から。
いや。
ああ。
女の息遣いが聞こえる。
景色が揺らぐ。
男の腹の虫が鳴いた。

「ど」

どうして私を――揺れる景色の中で、男はどうにか声を絞り出した。
魔人を求めるのに、能力を使ってもらう以外の理由がありますかと小首を傾げ女は笑う。
ああ。
その仕草が。
その表情が。
もう、考えてなど、いられない。
口を開ける。大きく、大きく。

「さあ――」

あなたの能力を見せてください――女の手に持った盆が、椀が、手燭が、床に落ちてがしゃりと鳴る。
男は、口を大きく開き、女の顔を覆うほど開き、そのまま女に覆いかぶさるように上顎を開く。
明後日の方を向いた視界の端に、土蔵の明り取りから月の青白い光りが差し込む様が映った。

晴れたのか。
今日は良い日だ。


***


ぶつり――頭の芯に響く音が聞こえた。

突如、男の視界は靄がかかったように白くぼやけ、体はつる草のようにぐにゃりと揺れる。
何が起きた――男は大いに焦った。
首が火箸でも当てられたように熱い。いや蔵の外に放り出されたように寒い。全身がひやりと濡れる。汗をかいているのか。目の前が霞む。何が起こったのか。口を閉じて前を見なければ。

よろめきながら、男は女を見る。
月明かりで青く染まった蔵の中で、女は笑っている。笑いながら男のほうへと手を差し出す。白い手と、その手に握られた包丁を刺し出す。
ぶつりと、男の首筋に包丁が刺し込まれる。白い刃先が首の皮に食い込み、ずぐりと肉を裂き、ぶつと血の道を断つ。
男は首に差し込まれた冷たい感触と、そこからざわざわと噴き出す血の流れを感じながら、どうと倒れた。
逆さになった景色の、逆さに笑う女へ、男は霞む目を向ける。

「なぜ」

首の据わらない頭から、まだ断たれていない喉から、男は声を漏らした。
その千切れかけた頭で、男は何とか事態を飲み込もうと頭をめぐらせていた。

この女は私を待っていた。私に能力を使わせるために。私はこの屋敷に逃げ込んだ。“食欲”を我慢できずに女を喰おうとした。この女の望む通りに私の能力で。
私は何をやったのだ。
この女はなんなのだ。
分からない。
何がなにやら。
何も分からない。

床の上、虚ろな目を向ける男の顔を見下ろして、女は笑う。

「どうしてなのでしょう。米がかびて酒になるようなものでしょうか。暑さ寒さによく晒された野菜のほうが味があるなどというようなものでしょうか」

よくわかりませんけれど――女は無邪気な顔で笑っている。
分からない。
何がなにやら。
何も分からない。

「能力を使うそのときが、試してきた中で一番美味しいのです」

すぐに下ごしらえを済ませますからと女は声を弾ませて言う。
その声を聞き、ああ――と、男の喉からごぼごぼという音が漏れる。
分かった。
合点がいった。
なんということだ。
やっと分かった。
この屋敷のどこがおかしかったのか。
私は何を見ていたのだ。己の“食欲”に気を取られ、こんなことにも気付けなかったのか。

男はこの屋敷を訪れたときのこと、女に料理を振舞われたことを、再び、まざまざと思い出した。
始めから分かって然るべきだった。この屋敷の違和感の正体に。

女の料理が私の口に合った時点で気付くべきだったのだ。


***


私はこんなところで死ぬのか。

床の上でもがこうとする男を見て、あまり動かれては血が肉に染みてしまいますと女は屈みこみ、男の肩に手を添える。
ごきりと、腕が伸び、あらぬ方向へよじれる。ついで女は足の付け根に手を伸ばし、やはりそちらもごきりと音を立てる。
肉を、皮を、内側から突き刺すような痛みと、体の節に突然骨が増えたかのような奇妙な感覚に、男は呻き声を上げた。

「まずは血抜きをしますので、それまでお待ちくださいね」

男の様子に構わず、熱に浮かされたような声を出しながら、女は包丁を男の手首にあてがう。
ずるりと刃が引かれ、手首が焼かるような感触を男に伝える。右手と、続いて左手。

背中が自分の血で濡れていくのを、おぼろげに男は感じる。
今やこの土蔵の床は私の血で満ちているのだろうか。
空の土蔵に、私の血が満ちているのだろうか。
ああ。
分かった。
合点がいった。
この土蔵が空なのも当然だ。
ここは台所だったのか。
この蔵は物を収めるものではなかったのだ。
この蔵は魔人を収めるためのものだったのだ。
私のような魔人を。食材を。

男の足の付け根に包丁が刺し込まれる。右足と、続いて左足。
男はもう痛みを感じることもない。
ぐちりぐちりと、足の中に得体の知れないものが押し入ってくる、そんな感覚が僅か、頭の端に届くだけである。
男の意識は土蔵の闇に溶け出し、月明かりに混じり散じていく。

――ああ。

――また、視線を感じる。
――何処からか。いや、この蔵全体からか。
――もしかしたら、この視線はここで死んだ者達のものであったか。
――あるいは、死んでいく者達を見続けたこの蔵が、死んでいく者達に何か伝えようとしていたのだろうか。
――居心地が悪いなどと思い続けてきたが、

――死に様を看取ってくれようというならば、ありがたい。


***


男の体に一通り包丁を通すと、女は蔵の外から水桶を持ち込み、床いっぱいに水を張りだした。
男の体が大体水に浸るほどの水かさになると、女はこれでひとまず大丈夫ですねと満足そうに言った。

「血が抜けるまで、何かお話でもしましょうか」

祭りを待ちきれない子供のように興奮した面持ちのまま、女は水に沈む男へ語りかける。

「そうです。そういえば以前お話してくれた“迷い家”ですけれど、あれから私、居続けたらどうなるか考えてみたんですよ」

私が思うには、きっと――女は男に顔を寄せ、内緒話でもするかのように声を潜ませる。

「その家の住人が帰ってくるんじゃないでしょうか。家ですもの、やっぱり誰か人が住んでいるのが当然でしょう」

女の着物の裾にあわせてゆらりゆらりとゆれる水面に、月明かりが照る。
光の下で、黒く濁った水の中で、男は物を言うこともない。

「そうして家の住人と会ってしまったら、そうしたらもう、そのお話は“迷い家”ではなくなるのです。ほら、山道に迷って、人など住んでいないだろう場所に家を見つけ、その家へ上がりこむってお話、“迷い家”でなくともあるじゃないですか」

住人が出てくれば、その舞台は“迷い家”ではなく、もっと別の怪談になってしまうのですよ――返事がなくとも、女は語り続ける。
素敵な怪談話をありがとうございました、“鬼一口”さん――
あなたのお陰で、私も、自分の魔人能力にぴったりの名前を思いつきました――
ねえ、私にぴったりの名前だと思いませんか。山で迷った人を誘い込み、そうしてこのように――
何にしても、本当にありがとうございました。とても楽しませていただきましたよ。そして、それから――


いただきます――と、消えゆく意識の中、男は最期に女の声を聞いた気がした。


妃芽薗学園の一角、水場の前で、社は夢追中に箴言を続けている。

私も付喪神になるほど長い時間を過ごしてきましたし、沢山の人を見てきました。ですから言いますが――ハンカチを洗う夢追に社は言う。

世の中には近づかないほうが無難な存在というものが沢山います。遠くの物事を見聞きすることができ、そこで見た相手を自分の下へと呼び寄せるなどという、使い方によっては大変役立つであろう能力を持っていながら、その能力に“山姥”などと名前をつけて自分の欲を満たすことにしか使わなかった者もいました――社は古い記憶を甦らせる。

もしかして、昔、社の中に住んでいた人のことかな――夢追の問いに、“サの便”の能力を持つきっかけとなった、土蔵の古い持ち主ですと社は答え、いえそういった細かいことは置いておいてですねと言葉を継ぐ。

そりゃもう酷い光景をずっと見続けてきたから分かるし、言いますけれど、先ほどの千坂らちかさんという方は確実にそういった近づかないほうが無難な存在です――社の箴言は続く。

つい先ほど、夢追と社は妃芽薗学園でのハルマゲドンで敵陣営となる生徒会の一員、千坂らちかと遭遇していた。
遭遇、というより夢追が会いに行ったのである。
番長グループでのハルマゲドンへ向けた作戦会議の中で、生徒会陣営では千坂らちかが最も強力な中二力を持った人物であるという情報と、しかしどのような能力であるかは不明であるという情報を得て、居ても立ってもいられず、その魔人能力を調べに行ったのだ。
途中、別の生徒会メンバーと悶着を起こし、お互いの顔面を殴りあうなどといった不慮の事故はあったものの、なんとか千坂に会うことはできた。
できたのだが。
結局、千坂に会ったもののその能力は見せてもらえず、能力は見せられないけれど代わりにとハンカチを一枚もらっただけで夢追は引き返すこととなった。
今は、不慮の事故により腫らしていた頬を冷やすのに使っていたそのハンカチを丁寧に洗い直しているところであった。

――ですから、あの人には十分に注意してくださいね――と、社は箴言を終える。

社がそう言うなら間違いないんだろうねと答えながら、夢追はハンカチの片端を生地を傷めないよう優しく咥え、左手だけでくるくると器用に絞る。
そんな夢追の落ち着いた様子に社は、まあ危ないと分かっていても危ないところに近づくのがご主人様ですからねと、諦めたような、それでもどこか嬉しそうな言葉を呟く。
なんだかんだ言いながら、夢追の前へ前へと進み続ける性格を、社は好いている。

「あれ?この生地、木綿じゃないみたい。何だろう」

口からハンカチを離し、夢追はしげしげとその表面を眺めたり、手で撫でまわす。
ぺろりと舐めて、絹でもないけど動物性かなぁなどと頭を捻る夢追を見て、相変わらず好奇心旺盛なことでと社は零す。
奇跡を求め、凄いことを探し、魔人能力を求めるご主人様――
どんな危険だろうと、自分の夢を追うことにためらいのないご主人様――

水を切ったハンカチを広げ、夢追は満足そうにひとつ肯いた。

「うん、綺麗になった」

綺麗な刺繍だねぇとハンカチを眺める夢追に、手作りでしょうかねと社は答える。


***


「さて!番長陣営のほうへ帰ろっか!」

ハンカチを袂に仕舞い、歩き始めた夢追に、思い出したように社が言う。

そうです。長く物事を見てきたものとしてもうひとつ助言がありました――
危険を恐れず進むのも良いです――
人を喰う鬼や妖怪や魔人なんかに会うのも良いでしょう――
そんな輩がうようよしているのがそもそもハルマゲドンですし――
そんな輩からご主人様の身を護るのが私の役目であり、誇りですから――
ただ――
ご主人様の無鉄砲さを見ていると思い出し、ではなかった。心配になることがひとつ――
うっかり好奇心が高じて、人を喰ったりするのはお勧めしませんよ。見ていて美しくないですから――

「あはは、何それ。……でも、うん。分かったよ」


妃芽薗学園の一角に、からりころりと下駄の音が鳴り響く。
次第にその音は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。